大蓮寺 淀屋清兵衛墓など

2009年11月27日
大阪では有名な橋に関係する豪商淀屋清兵衛の墓がある、大蓮寺(鳥取県倉吉市新町1-2411)です。
お寺1

新田義貞弟墓
手前の3基ならんでいるのが、新田義貞の弟 脇屋義助の墓。
後ろの塔の先だけが見えているのが、淀屋清兵衛の墓です。

養老年間に打吹山東隣の華到山麓の法界門に創建された大蓮寺が起源と伝わっています。
天正年間に善蓮社然誉上人文翁が近郊の3寺を統合し、自らを開山として玉川沿いの現在地に伽藍を建立しました。

江戸時代建築の先代の本堂は昭和17年に解体され、昭和30年に現在の鉄筋コンクリート造りの本堂が再建されました。


【淀屋】
淀屋とは、江戸時代の大坂で繁栄を極めた豪商。
全国の米相場の基準となる米市を設立し、大坂が“天下の台所”と呼ばれる商都へ発展する事に大きく寄与しました。

米市以外にも様々な事業を手掛け莫大な財産を築きましたが、その財力が武家社会にも影響する事となり、幕府より闕所(財産没収)処分にされました。
しかし、闕所処分に先立ち伯耆国久米郡倉吉の地に暖簾分けした店を開き、後の世代に再び元の大坂の地で再興しました。
幕末になり討幕運動に身を投じ、殆どの財産を自ら朝廷に献上して幕を閉じました。

淀屋を創業した岡本家によるものを前期淀屋、闕所後に牧田家により再興されたものを後期淀屋と呼びます。

淀屋が開拓した中之島には、かつて常安町と常安裏町(現在の中之島4丁目~6丁目)が有りました。
現代も中之島に掛かる
淀屋橋常安橋にその名を残しています。

初代の岡本三郎右衛門は、伏見城の造営や淀川の堤防改修において工事の采配を振り、高い土木工事技術を発揮しました。
その後、大坂の十三人町(後の大川町、現在の大阪市中央区北浜4丁目)に移り、淀屋と称し材木商を営みました。
1609年から1614年に掛けて中之島の開拓を行い、江戸時代から現代まで続く経済の拠点を造りました。

二代目の淀屋言當は、途絶えていた青物市を元和元年に京橋1丁目の淀屋屋敷で再開。
寛永元年には「海部堀川」を開削し、海部堀川の屈折点に造った船着場「永代浜」(現在の靱本町2丁目)に魚の干物を扱う雑喉場市を設立しました。
また米価の安定のため米市を設立し、大坂三大市場と呼ばれた青物市、雑喉場市、米市を一手に握りました。

米市の取引きは場所を取る米を直接扱わず、米の売買が成立した証拠として手形を受け渡し、手形を受け取った者は手形と米を交換するという事が行われていました。
それが次第に現物取引でなく、手形の売買に発展する事になり、この淀屋の米市で行われた帳合米取引は世界の先物取引の起源とされています。

井原西鶴は“日本永代蔵”の中で淀屋の繁栄ぶりを記しています。
淀屋の米市は二代目の言當、三代目の箇斎、四代目の重當の時代に莫大な富を淀屋にもたらしました。

宝永5年、この淀屋の発展と凋落の顛末が近松門左衛門によって浄瑠璃“淀鯉出世滝徳”に描かれました。


【脇屋義助】
鎌倉時代末期から南北朝時代初期の武将。
新田朝氏の次男で、新田義貞の弟。名字“脇屋”は群馬県太田市中央部に位置する“脇屋町”の町名の由来。

元弘元年、兄義貞とともに新田荘にて挙兵し、鎌倉を攻めました。
執権北条氏の滅亡、後醍醐天皇の京都への還御に伴い、諸将の論功行賞によって、元弘3年8月5日、正五位下に叙位。
左衛門佐に任官。また、同年、一時期、駿河国守護にもなりました。
以後、兵庫助、伊予守、左馬権頭、弾正大弼などの官職を歴任。
武者所の構成員となり、同所五番となります。
その後も常に義貞と行動をともにし、各地で転戦。
延元元年/建武3年、刑部卿に転任。
延元3年/建武5年に兄義貞が不慮の戦死をすると越前国の宮方の指揮を引き継ぎました。
暦応2年/延元4年9月には従四位下に昇叙。

兄・義貞亡き後の軍勢をまとめて越前国黒丸城を攻め落としたものの、結局幕府軍に敗れて越前国から退きました。
康永元年/興国3年、中国・四国方面の総大将に任命されて四国に渡りましたが、伊予国の国府で突如発病し、そのまま病没。
享年38才。墓所は倉吉打吹の大蓮寺。
時期は不明だが、従三位を贈位。

昭和8年、兄・義貞の館跡と考えられている群馬県太田市の安養寺から脇屋義助を追悼する板碑が発見されました。
種字には金泥が塗られていたが、北朝年号であったことから真贋論争が起きました。
現在では本物と思われています。
この板碑から義助の正確な生没年月日が判明。
また、嘉元元年生まれの説もある。
Wikipediaより


白壁土蔵群より広い道を1本渡ります
弁天様のお隣に大蓮寺の山門があります。

本堂はモダンなデザインですが、墓地は昔のままという感じでした。
山門を入ってすぐ、墓地入り口に脇屋義助の墓があります。
その真後ろに淀屋清兵衛の墓がありました。
どちらも大きなお墓でした。

関西人の私にとっては、ここで“淀屋”と出会うとは思ってもいませんでした。
大阪で淀屋橋といえば、誰もが知っている橋です。
(行った事はなくても、名前は必ず聞いています。)
その淀屋橋は“淀屋”という豪商からついた事も聞いてはいました。
が、その淀屋とこのお墓の淀屋が同じだとは驚きました。

やはり豪商と呼ばれるようなやり手のお店は違いますね。
財産没収処分にされそうになると、倉吉に暖簾分けした店を開き事業を途切れさせず、その後、元の大坂の地で再興しているのです。
この先をみる目と、復活させる力はさすが大阪のど真ん中・メインストリートの中に名前を残すだけはあります。

新田義貞は名前は知っていても、詳しく知らないのです。
その弟となるとさらにわかりません。
鎌倉や南北朝時代ファンには有名な人なのでしょうか?

私もそれほど長い間、大蓮寺にはいませんでしたが、訪れる人に会いませんでした。
山門の前を通って、中をチラッと覗く人はいても、お墓を探す人はいませんでした。
やはり淀屋は大阪人以外は馴染みのない言葉でしょうね。



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