みもすそ川公園 - 長州砲・壇ノ浦砲台

2009年08月15日
みもすそ川公園(山口県下関市みもすそ川町1番)は、幕末の長州藩の砲台跡でもあります。
砲台1  砲台2

砲台3  砲台4
幕末の下関戦争時に活躍した長州藩の砲台跡であることから、5門のレプリカが海峡に向けて設置されています。

文久3年5月から6月にかけて、長州藩は関門海峡を通る外国船を5回にわたって砲撃しました(攘夷戦)。
翌年8月、アメリカ・イギリス・フランス・オランダの四国連合艦隊17隻が報復のため下関にやってきました。
海峡の最もせまい所に築かれたこの壇之浦砲台は、前田砲台と共に重要な役割を果たしましたが、連合艦隊に大敗し、すべての砲台が占領・破壊されました。
外国の進んだ軍備にめざめた長州藩は、開国・倒幕へと転換し、明治維新を実現する原動力となりました。

長州藩の主力となった加農砲(カノン砲)は青銅製の大砲で、球形の弾丸を発射し、目標を打ち抜いて損害を与えるものでしたが、連合艦隊の新しい大砲は距離・威力ともはるかにすぐれたものでした。

この大砲は幕末に数多くの大砲を鋳造していた長州藩の安尾家に伝わる20分の1の模型を参考に、原寸大に復元したレプリカです。
砲身に刻まれた文字は、パリのアンヴァリッド軍事博物館が所蔵している、これとほぼ同型の長州製青銅砲の砲身を模刻しています。
現地説明板より


天保製長州砲2  天保製長州砲1
天保製長州砲

幕末、関門海峡での6次にわたる攘夷戦は、元治元年8月、長州藩兵と英・仏・蘭・米4カ国連合艦隊との交戦をもって終結したが、同時にこれは明治維新の具体的始動につながった。
この歴史的事件で下関海岸砲台に装備された長州藩の青銅砲は、すべて戦利品として外国に運び去られ国内から姿を消していた。

1966年春、渡欧中の作家古川薫氏がパリ・アンヴァリッド軍事博物館に保管されている、攘夷戦長州砲を発見、以来返還運動が進められたが実現困難のところ、郷土出身の外務大臣安倍晋太郎氏の努力とフランス政府の好意によって1984年6月、貸与の形式で里帰りを見るに至った。
この機会に下関東ロータリークラブでは、フランス政府の了解を得、創立20周年記念事業として、これを原寸大かつ精密に模造し下関市に寄贈した。

同・長州砲は天保15年萩藩の鋳砲家郡司喜平治信安の手になるもので、幕末日本人の対外危機感を象徴する歴史的逸品である。
鎖国に眠っていた日本史がようやく世界史に組み入れられる瞬間を目撃したこの物言わぬ証人を、海峡のほとりへ永久に安置しようとするのは、歴史に富むこの地の発展と世界平和を祈念する趣旨にほかならない。
現地説明板より


幕末ここから外国船に向かって砲撃したのですか。
当時の大砲の威力はどれぐらいだったのですか?
700mは飛んだ?
700mほど飛ぶと、海峡を越えて九州まで届きますが、どうだったのでしょう。

外国船はこの海峡を通るので、700mの射程距離はいらないでしょうが、それぐら飛ぶ大砲でないと外国船を撃つ事ができないような気がしました。
たしかにここで砲台を壊滅させられると、容易に上陸を許してしまいます。
重要な場所だったのはわかります。
しかし海峡がこれだけ狭いと、外国船もすごく近い場所にくるという事です。
威圧感を感じたでしょう。

結局、大砲は戦利品として持ち帰られていますが、そのお陰で新選組は大砲の洗礼を受けなかったのかもしれないですね。
もしこの大砲が長州藩の手元に残っていたら、京都で長州藩がぶっ放していたかもしれません。
京都の治安を守る新選組は大砲の砲撃を受けていたかもしれません。
そうなると、池田屋事変もなく、新選組はたいした仕事をしなかった隊という事になっていたでしょう。
大砲vs刀ではどう考えても大砲の勝ちです。

でも、こんな大砲を幕末当時に造っていたほうが驚きです。
考えた人、それを形にした人、凄いですね~。
全部手作りですよ!
今のようなコンピュータ制御の機械もないですから、ひとつづつ手作りですよね。
すごい!
さすがに大砲は大きすぎて、持って帰りたいとは思いませんでした。

万が一、高杉晋作など長州の有名人のサイン(落書き)でもあれば欲しいです。
そういうのは、博物館などに収蔵されてしまっていますね。



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