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壇ノ浦古戦場址 - みもすそ川公園

2009年08月14日
壇ノ浦古戦場址が一望できるのがみもすそ川公園(山口県下関市みもすそ川町1番)です。
壇ノ浦410

安徳天皇2
「今ぞ知る 身もすそ川の 御ながれ 波の下にもみやこありとは」 二位の尼

源平2  源平1
                源義経と平知盛

治承・寿永の乱(いわゆる「源平合戦」)の最後の合戦となった壇ノ浦の戦いの舞台にもなった場所です。
現在の町名(下関市壇之浦町)としては関門橋直下周辺を指しますが、広義には壇之浦町・みもすそ川町・本町あたりまでを含めることがあります。


<壇ノ浦の戦い>
平安時代の末期の元暦2年/寿永4年3月24日に長門国赤間関壇ノ浦(現:山口県下関市)で行われた戦い。
栄華を誇った平家が滅亡に至った治承・寿永の乱の最後の戦いです。

『平家物語』には平氏一門の最後の様子が描かれています。
知盛は建礼門院や二位ノ尼らの乗る女船に乗り移ると「見苦しいものを取り清め給え、これから珍しい東男を御目にかけましょう」と笑った。
これを聞いた二位ノ尼は死を決意して、幼い安徳天皇を抱き寄せ、宝剣を腰にさし、神璽を抱えました。
安徳天皇が「どこへ行くのか」と尋ねれば、二位ノ尼は「弥陀の浄土へ参りましょう。波の下にも都がございます」と答えて、安徳天皇とともに海に身を投じました。
『吾妻鏡』によると二位ノ尼が宝剣と神璽を持って入水、按察の局が安徳天皇を抱いて入水したとあります。
続いて建礼門院ら平氏一門の女性たちも次々と海に身を投げます。

武将たちも覚悟を定め、教盛は入水、経盛は一旦陸地に上がって出家してから還り海に没しました。
資盛、有盛、行盛も入水しています。

平家の総帥宗盛も嫡男の清宗と入水しましたが、命を惜しんで浮かび上がり水練が達者なために泳ぎ回っていたところを義経軍に捕らえられてしまいました。

剛の者である教経は、鬼神の如く戦い坂東武者を討ち取りまくりますが、知盛が既に勝敗は決したから罪作りなことはするなと伝えました。
教経は、ならば敵の大将の義経を道連れにせんと欲し、義経の船を見つけてこれに乗り移る。
教経は小長刀を持って組みかからんと挑むが、義経はゆらりと飛び上がると船から船へと飛び移り八艘彼方へ飛び去ってしまいます。
義経の「八艘飛び」です。
義経を取り逃がした教経に大力で知られる安芸太郎を討ち取って手柄にしようと、同じく大力の者二人と組みかかりました。
教経は一人を海に蹴り落とすと、二人を組み抱えたまま海に飛び込みました。
『平家物語』に描かれた平氏随一の猛将として知られ屋島の戦い、壇ノ浦の戦いで義経を苦しめた教経の最後ですが、『吾妻鏡』によれば教経はこれ以前の一ノ谷の戦いで討ち死にしているという記述があります。
しかし、『醍醐雑事記』には壇ノ浦で没した人物の一人として教経の名が挙げられています。

知盛は「見るべき事は見つ」とつぶやくと、鎧二領を着て乳兄弟とともに入水。

『玉葉では』申の刻(午後4時ごろ)、『吾妻鏡』では午の刻(12時ごろ)、平氏一門の多くが死ぬか捕らえられ、戦いは源氏の勝利に終わりました。

入水した建礼門院は助け上げられ、内侍所(八咫鏡)と神璽(八尺瓊勾玉)は回収されましたが、二位ノ尼とともに入水した安徳天皇は崩御し、宝剣(天叢雲剣)も海に没した(別説もあります)。

安徳天皇の異母弟の守貞親王は救出されました。
平氏一門のうち宗盛、清宗、それに平家と行動をともにしていた平時忠(二位ノ尼の弟)、平時実、平信基、藤原尹明といった廷臣、能円、全真、良弘、忠快、行命といった僧侶、平盛国、平盛澄、源季貞らの武将、大納言典侍、帥典侍、治部卿局らの女房が捕虜となっています。

義経は建礼門院と守貞親王それに捕虜を連れて京へ戻り、範頼は九州に残って戦後の仕置きを行うこととなりました。
義経は京に凱旋し、後白河法皇はこれを賞して義経とその配下の御家人たちを任官させました。
これを知った頼朝は激怒して、任官した者たちの東国への帰還を禁じます。
さらに、九州に残っていた梶原景時から頼朝へ、平氏追討の戦いの最中の義経の驕慢と専横を訴える書状が届き、義経が平時忠の娘を娶ったことも知らされ、頼朝を怒らせました。

元暦2年5月、命令に反して義経は宗盛・清宗父子を護送する名目で鎌倉へ向かいますが、腰越で止められてしまいます。
宗盛父子のみが鎌倉へ送られ頼朝と対面。
義経は腰越状を書いて頼朝へ許しを乞うが、同年6月に宗盛父子とともに京へ追い返されてしまいました。
宗盛・清宗父子は京への帰還途上の近江国で斬首されました。

その後、義経が頼朝に許されることは無く、頼朝との対立が強まり、同年10月に後白河法皇に奏上して頼朝追討の宣旨を出させて挙兵するが失敗。
逆に追討の宣旨を出されて没落して奥州藤原氏の元へ逃れましたが、文治5年閏4月に平泉で殺されました。

合戦後ほどなく建礼門院は出家し大原に隠棲しました。
守貞親王はすでに皇位への道は断たれており、後に出家しています。
平時忠は能登国へ流罪となり、当地で死去。
Wikipediaより


JR山陽本線下関駅からバスに乗ります。
御裳川バス停留所で降りると、そこがみもすそ川公園です。
関門橋の橋脚の横でもありました。

この辺一帯が壇ノ浦ですか。
壇ノ浦の戦いは、絶対に歴史で習いますよ。
戦いの内容は詳しく覚えていないのです。
私は随分前の短大時代に、ゼミ(大学ほど本格的ではないです)で、源平合戦・吾妻鏡を選択していたのです。(私は静御前についてでした。)
そういう縁もあって、壇ノ浦には興味がありました。

ここが義経が八艘跳びをした舞台ですか。
でも実際は無理ではないですか?
この潮の流れで、当時の船で、甲冑を付けているのです。無理でしょう。
義経伝説の一つですよね?
八艘跳びではなくて、八艘跨ぎくらいだったのかもしれないですね。
でもこれもロマンですね。八艘跳びOKです。

やはり義経は美男子で、頭が良くて運動神経も抜群(戦上手)で、家来思い。
それゆえに兄に疎まれて最期を迎える。
というイメージがあるので、“判官贔屓”という言葉さえうまれたのヒーローです。
敵方や頼朝には悪いですが、義経側から歴史を見たときは究極の悪役でいてください。
授業で他の方々の、波乱の人生を知り、涙したのも事実ですから。

と、ここまで書いていて、安徳天皇が一番悲劇だったのではないかと、ハタと思いました。
僅か8歳です。
病気という避けがたいものではなく、無理心中といっていいのではないでしょうか?
義経は歴史の波にのまれたといっても、元服しているのである程度の覚悟(当時の武士の教育を受けているでしょうから、現在と同じ考えではなかったと思います)が出来ていたと思います。
しかし8歳では、いくら今と違うといっても子供は子供です。
まだまだ遊びたい盛りのはずです。
それなのに、大人の事情で人生に終止符が打たれるなんて…。
きっと息が出来なくなった時は、苦しくて正常な精神状態ではなかったのではないでしょうか?

あの世では、そんな権力争いとは無縁の場所で、子供らしく過ごせているといいのに。



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壇ノ浦の戦い
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