スポンサーサイト

--年--月--日
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

関ヶ原の戦い(概略)

2009年07月09日
安土桃山時代の慶長5年9月15日に、美濃国不破郡関ケ原(現:岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦が“関ケ原の戦い”です。
徳川家康の覇権を決定付けた戦いになりました。
関が原地図284
慶長3年、豊臣秀吉は死に際して、子の豊臣秀頼を後継とし、その補佐後見を前田利家・徳川家康等五大老や、浅野長政・石田三成等五奉行などの有力大名・武将に託しました。
秀吉亡き後やがて、徳川家康を中心とする一派と、石田三成を中心とする一派との間で、主導権争いが激しくなりました。
慶長5年(1600年)に行われた関ケ原の戦いは、両派の勝敗を画した戦闘です。

関ケ原の戦いは、日本全国のほとんどの大名が二派のいずれかにくみしたことや、この戦闘で勝利した家康が、豊臣政権の主導権を完全に掌握し、引き続いて徳川政権(徳川幕府)を打ち立て、その徳川氏(徳川将軍家)による世襲を確立する、基礎となったと考えられてきたことなどから、“天下分け目の戦い”と呼ばれています。

関ケ原の戦いで争った二派は、徳川家康を総大将とする東軍と、毛利輝元を総大将とし石田三成を中心とする西軍です。



西軍方は三成の拠る“笹尾山”、宇喜多秀家の拠る“天満山”、小早川秀秋の拠る“松尾山”、そして毛利秀元が布陣する“南宮山”のラインで東軍を囲む鶴翼の陣を敷きました。

関ケ原は早朝から深い霧が立ち込め、隣の軍の様子もわかりません。
そんな中、家康から先鋒の約束を取り付けた福島正則は、じっと開戦の火蓋を切る機会を伺っていました。

濃霧の中で両軍は2時間ほど対峙。
やがて、霧も薄くなってきた頃、福島隊の横を井伊直政と松平忠吉の小隊が通り抜けようとしていました。
家康から先鋒を任されたはずの福島正則の家臣可児才蔵が呼び止めて詰問しましたが、“物見”と称して福島隊の前方へ出ました。
直政の小隊は、西軍の主力である宇喜多隊に向けて発砲、ここに関ケ原の戦いの火蓋が切られたのです。

宇喜多隊も直ちに応射、関ケ原はたちまちのうちに激戦の様を呈していきました。
福島正則隊6,000や井伊直政、松平忠吉らの隊は、 宇喜多秀家隊1万7,000に攻撃しましたが、あっという間に撃破されてしまいます。
しかし、福島隊らの不利を見た加藤嘉明隊らが、宇喜多隊の側面を猛攻。
これに乗じて福島隊らも宇喜多隊に猛反撃を仕掛けるなど、宇喜多隊周辺は関ケ原での最大の激戦地でした。
黒田長政隊5,400、細川忠興隊5,000は一斉に三成の部隊めがけて襲い掛かります。
三成隊も配下の島左近や蒲生郷舎らが奮戦、大筒を用いて襲い掛かる敵を撃退していきます。
大谷吉継隊4,100と配下の戸田重政、平塚為広計1,600は、藤堂高虎隊2,500・京極高知隊3,000と死闘と繰り広げ、小西行長隊6,000は、田中吉政隊3,000・筒井定次隊2,800と交戦しています。

三成は、開戦から2時間を過ぎたころ、まだ参戦していない武将に戦いに加わるように促す狼煙を打ち上げました。
さらに島津隊に応援要請の使いを出す。
西軍は総兵力のうち、戦闘を行っているのは、宇喜多、石田、小西、大谷の3万3,000ほどながら、地形的に有利なため戦局をやや優位に運んでいました。
ここで松尾山の小早川秀秋隊1万5,000と南宮山の毛利秀元隊1万5,000、その背後にいる栗原山の長宗我部盛親隊6,600ら、計4万7,000が東軍の側面と背後を攻撃すれば、西軍の勝利は確定的となるはずでした。
しかし、島津は使者が下馬しなかったため、無礼という理由で応援要請を拒否、また毛利秀元・長宗我部盛親・長束正家・安国寺恵瓊らは、内応済みの吉川広家に道を阻まれ、参戦できずにいました(宰相殿の空弁当)。

正午過ぎ、家康は内応を約していた小早川秀秋隊が、動かないことに業を煮やして、松尾山に向かって威嚇射撃を加えるように命じます。
迷いに迷っていた小早川秀秋は、この家康の督促に意を決し松尾山を降り、ここに小早川隊1万5,000の大軍は東軍に寝返ったのです。
ただし、松尾山が標高300メートルに達する山であり、戦闘のさなかに火縄銃の音が聞こえるのか、また、大谷隊と藤堂隊が激戦を繰り広げていた松尾山山麓に近付くのは容易ではないといった点から疑問も呈されています。
なお、小早川隊の武将で先鋒を務めた松野重元は「盾裏の反逆は武士としてあるまじき事」として秀秋の命令を拒否・離反しています。

小早川隊は山を駆け降りると、東軍の藤堂・京極隊と激戦を繰り広げていた、大谷隊右翼を攻撃する。吉継はかねてから風聞のあった秀秋の裏切りを予測しており、温存していた600の直属兵でこれを迎撃し、小早川隊を松尾山麓まで押し戻します。
ところが、それまで傍観していた脇坂安治、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱ら計4,200の西軍諸隊も、小早川隊に呼応して東軍に寝返り、大谷隊の側面を突きました。
予測し得なかった四隊の裏切りで戦局は一変、戸田勝成・平塚為広は戦死し、敗北を悟った吉継も自刃。

大谷隊を壊滅させた小早川、脇坂ら寝返り部隊や、藤堂、京極などの東軍部隊は、激戦が続いて関ケ原中央に進軍を始めた。ここに、関ケ原の戦いの勝敗は、ほぼ決定したのです。

小早川隊の寝返りと大谷隊の壊滅により、旗本中心の家康本隊もようやく動き出し、東軍は西軍に総攻撃をかけます。
そのころ、宇喜多秀家隊は、東軍各部隊から集中攻撃を受け続けていたものの、撃退し続けています。
しかし、小早川隊らが側面から攻め込み、東軍の後詰めの部隊からも波状攻撃を受ける。それでもなお宇喜多隊は激戦を繰り広げたが、とうとう宇喜多隊の各戦線が完全に崩壊し壊滅。宇喜多秀家は寝返った小早川秀秋を討とうと決心し、小早川軍に突撃して戦死しようとしますが、家臣の明石全登らに説得され、やむを得ず伊吹山中に敗走す。
小西隊も敗れ、敗走。
南宮山に布陣していた毛利らも西軍の敗北と知ると、戦わずに伊勢街道方面へ逃亡し始めます。
石田隊は宇喜多・小西が敗走したあと、東軍部隊から総攻撃を受けます。
圧倒的に不利であったにも関わらず、石田隊は持ち堪えていたが、とうとう壊滅しました。

こうしたなか、勝敗を度外視した戦いを続けていた島津隊は東軍に包囲され、ここにおいて、いわゆる島津勢の「敵中突破退却戦」が開始されます。
島津義弘隊1,500(実際は陣防衛戦で300人程度まで激減)が一斉に鉄砲を放ち、家康本陣側を通り抜け撤退を開始。この「前進撤退」には福島隊ですら腰が引いたとされます。
また、追撃した部隊のうち井伊直政と松平忠吉は狙撃され負傷し、本多忠勝は乗っていた馬が撃たれ落馬。
島津隊は島津豊久や長寿院盛淳(阿多盛淳)、肝付兼護ら多数の犠牲を出しながらも80前後の手勢となりながらも撤退に成功。
盛淳は、義弘がかつて秀吉から拝領した陣羽織を身につけ、義弘の身代わりとなって「兵庫頭、武運尽きて今より腹を掻き切る」と叫んで切腹したと言われています。
Wikipediaより


JR東海道本線関ケ原駅の北側、国道21号と国道365号が交差する付近がよく紹介される場所のようです。
関ケ原はピンポイントでここというのではなく、関ケ原という広範囲の場所をさすので、駅を降りた瞬間から楽しめるのかもしれません。

戦国時代は難しいですね。
人の名前は辛うじてわかっても、誰と誰がどう結びついているのか?
敵対するのは誰と誰か?
寝返ったのは誰か?
どの戦いが早いのか、どの戦いの後に、どの戦いがおこったのか?
など全然わかっていません。
実は石田三成と明智光秀を混同しそうになったりします。

“関ケ原”は興味がありました。
“天下分け目の関ケ原”いったいどんな場所なのか、気になりませんか?
一度機会があれば行って見たいと思っていました。
今回は、他の場所に行く途中に近くを通るので、寄ってもらい行ってきました。
なので時間は1時間もなかったので、本当にピンポイントでしか行っていません。

“天下分け目”と大阪と京都の境にある“天王山”と行った事になります。
どちらも今でもその言葉が頻繁に使われています。
現在にも残るほどに重要出来事だったのですね。
そしてどちらも、戦国時代に出来ています?
維新も大きな歴史的ポイントですが、この頃も大きな転換期だったのかもしれません。



戦国BASARA 其の壱








戦国BASARA白石温麺(しろいしうーめん)
700円


関ケ原町
関連記事
Comment

管理者のみに表示

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。