播磨赤穂城

2009年07月08日
赤穂浪士・忠臣蔵の故郷、播磨赤穂城(兵庫県赤穂市加里屋)です。
赤穂城全景  赤穂城見取図
国の史跡および名勝に指定されている、別名・加里屋城、大鷹城。

赤穂城は、慶長5年に関ヶ原の戦功により播磨姫路城主となった池田輝政の所領となり、重臣垂水勝重が現在の本丸・二の丸のところに陣屋造りの「掻き上げの城」を築きました。
池田輝政の五男池田政綱が35,000石を領して城主となりました。
寛永8年、政綱は嗣子が無く没し、政綱の弟輝興が佐用利神城から赤穂城主となりました。 
正保2年に池田輝興改易後、常陸笠間から浅野長直が入封し、慶安元年に幕命により、池田氏の陣屋を城に改築しました。

縄張りは変形輪郭式。
本丸と二の丸が輪郭式に配され、その北側に三の丸が梯郭式に置かれています。
銃砲撃戦を意識した設計となっており、十字砲火が可能なように稜堡に良く似た横矢掛かりが数多く用いられています。
縄張りは赤穂浅野氏初代長直の時代、浅野氏の軍師で甲州流兵学者の近藤三郎左衛門正純によってなされています。
長直は築城中、山鹿素行を招聘し、縄張りについて意見を聞き、これにより二の丸周辺の手直しがされました。
それまでは一重の堀に囲まれた掻上城という質素なものでした。

赤穂城は5万石の浅野氏には過度に広壮で、これがために財政難に陥っていました。
5層天守の造営も計画されていたが幕府への遠慮か財政難の為か造営されず、天守台のみが今日に残っている。

市内を流れる千種川より上水道を敷設し、城内のみならず城下各戸にも給水されていました。
日本三大上水道の一つに数えられています。

明治時代前期に城内の建物は破却され石垣と堀のみが残っていました。


幕末の赤穂藩は、財政難に悩んでいました。
文久2年、攘夷のための砲台建造を命ぜられ、そのやりくりに苦しみました。
藩内には保守派と改革派の激しい対立があり、先に、足軽から勘定奉行に抜擢されて藩政改革を進めようとした鞍懸寅次郎が保守派のために追放されています。
非常時に出くわした改革派は、保守派の執政森主税、参政村上真輔を暗殺しています。
土佐藩、長州藩へ走って、国事に奔走するものもありました。

鳥羽・伏見戦後、姫路城の警衛を務めています。
明治2年、版籍奉還があり、この年、改革派の6人が村上真輔一派に襲われて斬殺されるという内訌を繰り返しています。

江戸開城ののち下総市川から関東、会津、箱館へ抗戦をつづけた旧幕府歩兵奉行の
大鳥圭介は、領内赤穂郡の出身です。
Wikipedia&幕末維新史事典より


天守台より一望しました。
いろいろな建物が復元されているので、今はもっと建物があるのかもしれません。
何も残っていないというのも、忠臣蔵の物語とオーバーラップしていました。
歴史の悲しさを感じる風景でした。
しかしそれだけではなく、山と海に挟まれて、とても長閑な風景でした。
もし刃傷事件がなければ、とても平和でいい藩だったのではないかと思いました。
浅野内匠頭は、短気であったとも聞きましたが…。

私が赤穂浪士を知ったのは、NHK大河ドラマ「峠の群像」でした。
原作本も読んで、大河ドラマも見ていました。
浅野内匠頭が隆大介氏、大石内蔵助が緒方拳氏、吉良上野介を伊丹十三氏でした。
この浅野内匠頭がすごく良い人に描かれていました。
大石内蔵助や吉良上野介より、浅野内匠頭がすごく印象に残っています。

吉良上野介は本当に、意地悪な人だったのでしょうか?
人間同士ですから、合う合わない、好き嫌いはあって普通ですが、どれ程の確執があったのか、私は詳しくないのでわかりませんが、よほどの事なのでしょう。
でも、浅野内匠頭が短気な人というのが事実ならば、もしかしたら本当に些細な事が原因かもしれませんね。
それを考えるのが、歴史を楽しむ一つでしょうね。

吉良と大石の二人は、近衛家諸大夫進藤家と斎藤家を通じる形で遠縁があるそうです。
吉良から見れば、妻の母親の実家を継いだ者が大石家の血の流れる者だったということになる。
しかし、事件前から面識があったかどうかは不明。
という事です。
世間は広いようで狭いですよね。

箱館戦争で土方歳三と共に戦った大鳥圭介が赤穂出身というのも、実は初めて知りました。
赤穂浪士の精神、血を受け継いでいたのでしょうか。
最後まで戦い抜いた姿は、忠臣蔵そのものという感じもします。

藩内では、保守派と改革派が血を流しあっています。
血気盛んなのも、赤穂藩気質なのかもしれません。


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