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小田原城

2009年07月01日
幕末より戦国時代ファンの方が詳しいであろう、小田原城(神奈川県小田原市城内6-1)です。
小田原城2  小田原城3
小田原城は戦国時代から江戸時代にかけての平山城で、江戸時代には小田原藩の藩庁がありました。
城跡は国の史跡に指定されています。

3代当主北条氏康の時は、上杉謙信や武田信玄の攻撃に耐えました。

現在の小田原城址の主郭部分は、大久保氏時代に造営されたものです。
土塁の城が多い関東地方において主要部の全てに石垣を用いた総石垣造りの城ですが、現在のような総石垣の城になったのは寛永9年に始まった大改修後のことです。

城代が置かれた時期もありましたが、阿部氏、春日局の血を引く稲葉氏、そして再興された大久保氏が再び入封されました。
小田原藩は“入り鉄砲出女”といわれた箱根の関所
(2009年6月14・15日箱根関所 壱・弐を参照)を幕府から預かる立場でした。

平安時代末期、相模国の豪族土肥氏一族である小早川遠平(小早川氏の祖とされる)の居館でしたが、室町時代中期、応永23年の上杉禅秀の乱で禅秀方であった土肥氏が失脚し、駿河国に根拠を置いていた大森氏がこれを奪って、相模国・伊豆国方面に勢力を広げました。
明応4年、伊豆国を支配していた伊勢平氏流伊勢盛時が大森藤頼から奪い、旧構を大幅に拡張しました。
以来北条氏政、北条氏直父子の時代まで戦国大名北条氏の5代にわたる居城として、南関東の政治的中心地となりました。

1561年、上杉謙信が越後から侵攻。
鎌倉を陥落させた後、11万3千とも言われる大軍勢で小田原城を包囲。
1ヶ月に渡る篭城戦の後、上杉軍を撃退。
1569年、10月1日から4日にかけて甲斐から進撃してきた武田信玄によって包囲。
信玄自身落城させるのは不可能と悟っており、大きな戦闘は無く、城下に火を放つ程度であったといいます。
しかし本拠を荒された北条氏の面目もあり三増峠の戦いの前哨戦となりました。

天正18年、豊臣秀吉が天下統一の仕上げとして隠居北条氏政と当主氏直が指揮する北条氏と開戦し、当時北条の台頭に対抗していた関東の大名・宇都宮国綱や佐竹義重らとともに小田原城を総攻撃しました。
一般的に小田原征伐と呼ばれます。
この戦いにおいて秀吉は圧倒的な物資をもって取り囲むとともに別働隊をもって関東各地の北条氏の支城を各個撃破し、篭城戦によって敵の兵糧不足を待ち逆襲しようとした北条氏の意図を挫き、3ヶ月の篭城戦の末ほとんど無血で開城させました。
この篭城戦において、北条側が和議と抗戦継続をめぐって議論したが一向に結論が出なかった故事が「小田原評定」という言葉になっています。
その後秀吉は国綱とともに下野国宇都宮に陣を移し、参陣した東北地方の諸大名の処遇を決定、秀吉の国内統一事業はこれを以って完成しました(宇都宮仕置)。

戦後、北条氏の領土は徳川家康に与えられ、江戸城を居城として選んだ家康は腹心大久保忠世を小田原城に置きました。
小田原旧城は現在の小田原の市街地を包摂するような巨大な城郭でしたが、大久保氏入部時代に規模を縮小させました。
以後、17世紀の中断を除いて明治時代まで大久保氏が居城。
北条氏は、一族の北条氏盛が河内国狭山(現在の大阪府大阪狭山市)1万余石を治める外様大名として明治に至っています。

小田原城は、寛永10年と元禄16年の2度も大地震に遭い、元禄の地震では天守や櫓などが倒壊するなどの甚大な被害を受けています。
天守が再建されたのは宝永3年で、この再建天守は明治に解体されるまで存続していました。

幕末の小田原藩は、藩主大久保忠礼は元治元年に京都御守衛、慶応3年には甲府城代、幕府が頼りとする譜代藩の立場にありましたが、慶応4年2月、家老加藤直衛が藤枝へ赴き、大総督府へ恭順を言上しました。
4月11日、大総督有栖川宮熾仁親王が小田原へ到着。
東征軍の進軍に協力した小田原藩はしかし、旧幕遊撃隊、林忠崇軍の箱根攻略にまきこまれ、その責めを負って家老岩瀬正敬が自刃。
永蟄居を申しつけられた藩主にかわって、10月、大久保忠良が7万5千石であとを継ぎました。

明治3年から明治5年にかけ、城内の建造物はほとんど取り壊され、天守台には大久保神社が建てられました。
明治34年、旧城内に小田原御用邸が設置されました。
明治42年、唯一取り壊されなかった二の丸平櫓の修築工事が行われます。
大正12年9月1日の関東大震災により、御用邸は大破し、その後廃止されました。
取り壊しを免れ現存していた二の丸平櫓は倒壊、石垣も大部分崩壊。
昭和5年から昭和6年にかけて上記石垣が積み直されています。しかし、以前より低く積んでしまったため、偉容を損ねてしまっているのです。
昭和10年、震災で倒壊した二の丸平櫓が隅櫓として復興されましたが、予算の関係で規模が2分の1となっています。
昭和25年、関東大震災で崩壊した天守台の整備を開始しました。その後、小田原城址は小田原城址公園として整備されます。
昭和35年、天守がRC構造によって外観復元されています。
ただし、小田原市当局の要望により元来なかった天守最上階の高欄が取り付けられ、天守の本来の姿を忠実に再現するものではありません。
天守からは太平洋や笠懸山の石垣山城がよく見える。
現在、小田原市では、城の中心部を江戸末期の姿に復元することを計画していて、天守の復興を手始めに昭和46年には常磐木門(外観復元)、平成9年には銅門、平成21年には馬出門を復元しました。


小田原城1  小田原城常盤木門
常盤木門
本丸の正面に位置し、小田原城の城門の中でも、最も大きく堅固に造られていました。
古絵図などの記録から、江戸時代初期から設けられていたことが分かります。
元禄16年の大地震で崩壊した後、宝永3年に、多門櫓と渡り櫓から構成される桝形門形式で再建されたものが、明治3年の小田原城廃城まで姿をとどめていたといわれています。

現在の常盤木門は、市制30周年事業として再建したもので、昭和46年3月に完成しました。
常盤木とは常緑樹の意で、門の傍らには往時から松が植えられており、また、松の木が常に緑色をたたえて何十年も生長することになぞらえ、小田原城が永久不変に繁栄することを願って、常盤木門と名付けられたといわれています。


小田原城4
動物園には長寿日本一の人気者のゾウ“ウメ子”と、ニホンザルがいます。
写真は“ウメ子”で~す。
Wikipedia&幕末維新史事典より


JR東海道本線・JR東海道新幹線や小田急小田原線、伊豆箱根鉄道大雄山線、箱根登山鉄道の小田原駅から南へすぐのところです。

箱根の関所に行く前に小田原城に行きました。
なのでやはり雨です。

私の苦手な(嫌いという意味ではありません)戦国時代に舞台となったというのは、行くまで知りませんでした。
上杉謙信、武田信玄が攻めたお城だったのですね。
へぇ~。
これは戦国ファンにはたまらないのではないですか?

復元されたお城で、しかも見栄えのために無かった高欄をつけたり、予算の為に小さくなっていたりと、どうにも残念な復元のようですね。
復元というのだったら、やはりそこは正確にしてこそ復元ですよね。
これだと復元ではなく、再建といった方がいいのではないでしょうか?
戦国時代の姿にするか、取り壊される直前の幕末の姿にするかは難しいですが…。
やはり小田原城=戦国時代で、戦国時代に復元でしょうか?
しかし、最後の姿を…というのであれば、幕末時代ですよね。
もし本当にそういう議論が出たら、きっと戦国時代のものになるでしょう。

この小田原城は箱根関所を管轄しているので、多くの有名人、土方歳三や近藤勇も小田原藩にお世話になったのです。
特に問題もなく通過しているので、接点といえないほどのものです。
けれど厳密にいえば、接点があったのですね。
箱根関所でひと悶着を起こしていれば、もっと新選組と小田原藩が近くになっていたかもしれないのですが…。
問題が起こらないことはいいことですね。

ただ、小田原城で一番印象に残っているのは、お城でもお城の中の展示物でもなく、公園(動物園)にいた象でした。
驚きました!
いきなり象が現れるのですから。
1頭だけで淋しそうでしたね。
今でも元気にしているのでしょうか?


長崎大学付属図書館 幕末・明治期メタデータ・データベース






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