中尊寺

2009年06月29日
源義経を庇護した奥州藤原氏四代のミイラ等が安置されている、中尊寺(岩手県西磐井郡平泉町平泉衣関202)です。

中尊寺は天台宗東北大本山の寺院。
奥州観音札所番外。
山号は関山(かんざん)、本尊は阿弥陀如来、開山は慈覚大師円仁とされます。

藤原清衡が平泉に中尊寺の中興に着手したのは長治2年、50歳の時でした。
金色堂の建立は天治元年で、諸堂の整備も終わり、落慶供養が行われたのは着手から21年後の大治元年で、清衡は71歳(死の2年前)でした。
中尊寺は前九年・後三年の役の戦没者を含め、数多の霊を浄土へ導き、奥州全体を仏国土にしたいとの願いから建立されたものでした。

安元の頃に鞍馬山を逃亡した源氏の御曹司・源義経を匿って養育します。
治承4年、義経の兄・源頼朝が平氏打倒の兵を挙げると、義経は兄の元へ向かおうとします。
秀衡は義経を強く引き止めましたが、義経は密かに館を抜け出しました。
秀衡は惜しみながらも留める事をあきらめ、佐藤継信・忠信兄弟を義経に付けて奥州から送り出したのです。

文治5年、奥州藤原氏は滅亡しましたが、中尊寺は源頼朝の庇護を得て存続しました。
近世の中尊寺は衰退し、「奥の細道」の旅をしていた松尾芭蕉が中尊寺の荒廃ぶりを見て嘆いたのは有名です。
現在は、泰衡の首級桶から発見され、1998年に開花した蓮の花が「中尊寺ハス」として境内に植えられています。

中尊寺 金色堂
金色堂
金色堂は、鉄筋コンクリート造の覆堂の中に東を正面として建ちます。
堂は内外ともに総金箔貼りで、扉、壁、軒から縁や床面に至るまで漆塗りの上に布を着せ、金箔を貼って仕上げられています。
ただし、木瓦部分のみは当初から金箔を押していません。
堂内に立つ4本の柱は「巻柱」と称し、ヒバ材の八角柱の周囲にかまぼこ状の形をした杉材を貼り付けて円柱に仕立てています。
これは、柱の表面を漆工芸で装飾するため、柱材の干割れを避けるための措置である。
巻柱には蒔絵と螺鈿で宝相華文と仏像が表わされています。
仏堂内部に壁画ではなく漆工芸で仏像を表現しているのは日本でも珍しいです。

堂は建立当初は屋外に建っていました。
建立の数十年後には建物を風雨から守るための「霧よけ」のような施設が造られ、正応元年鎌倉将軍惟康親王の命令で金色堂を外側からすっぽり包む形で覆堂が建設されました。
現在の金色堂覆堂は1965年に建設された鉄筋コンクリート造のもので、金色堂はこの覆堂内のガラスケースに収められて、ガラス越しに見なければいけません。

秀衡の遺骸はミイラとなって現在も、中尊寺金色堂須弥壇の金棺内に納められています。
中央壇に清衡、右壇(向かって左)に基衡、左壇(向かって右)に秀衡の遺体と泰衡の首級が納置されていました。

秀衡は血液型A型。
身長は三代中もっとも高く167cm。太く短い首、福々しい顔。よく発達した胴、胸幅は厚く広い、いかり肩で腰から下は比較的小さい。
肥満体質で歯にカリエス、歯槽膿漏。
右側上下肢に軽度の骨萎縮が見られ、右半身不随あり、脳溢血、脳栓塞などで急死したとみられます。


中尊寺
白山神社能楽堂
江戸時代には平泉は伊達藩領となりました。
伊達公は能楽を愛好し、古来中尊寺の僧侶により山内の白山神社に奉納されてきた御神事能を推奨し、能舞台を建立して能装束を奉納しました。

夏草や 兵どもが 夢の跡
五月雨の 降残してや 光堂      松尾芭蕉

Wikipediaより


JR東北本線平泉駅から国道4号(奥州街道・陸羽街道)に出ます。
国道4号から北へ歩きます。
途中川の手前、東方向に“高舘義経堂”があります。
それを横に見ながらさらに北へ、中尊寺案内所の所を曲がれば、いよいよ中尊寺に到着です。
平泉駅から中尊寺月見坂入口まで1.6㎞(徒歩25分)だそうです。

中尊寺といえばやはり金色堂です。
覆堂に入るとガラスの向こうに金色に輝く堂がありました。
建物の中に建物がある…なんとも不思議なものですが、金色堂内陣そのものはそれほど大きくない、と思いました。
同じ金一色の建築物としては、秀吉の金の茶室がありますが、(復元された)金の茶室を見たときはあまりいい印象ではありませんでした。
なんというか、成金趣味っぽくてお上品には思えませんでした。
でも金色堂を見たときは、荘厳な感じを受けました。
この差は何なのでしょう…ね。

ガラス越しというのが、とても残念ですが、当時の人でさえ覆堂を造って大切にしようと思うほどのものですから、その遺志を継いで大切に後世に残していくためにはこれぐらいしないとダメでしょう。
そのガラスの向こうには、藤原氏四代のミイラが安置されているのも神秘的だと感じました。
ミイラとご対面してみたいです。
四代目、奥州藤原氏を滅亡に追い込んだ泰衡は首しかないのです。
どの時代も、先代が偉大すぎるとなかなか次世代はパッとしないようですね。
次の世代が優秀でも、前がその上を行くと優秀に見えない事も多いのでしょう。

中尊寺は観光客で賑わっていました。
今回は個人旅行でなかったので、平泉は中尊寺だけしかいけませんでした。
この近くには、
高舘義経堂-義経が住んだといわれている場所で、ここで自害したともいわれています。衣河館で自害の説や、生き延びて北へ逃げ延びた説もあります。
弁慶立往生跡-平泉レストハウス裏手、高舘の北方にあります。
弁慶の墓-国道沿いの中尊寺入口にあります。
衣川古戦場跡-泰衡が義経を攻めた古戦場跡です。
などもあり、時間があれば訪れてみたかったです。

戊辰戦争は、北越や奥羽などあちらこちらで戦いを繰り返しながら、北上しています。
この平泉には影響はなかったのでしょうか?
平泉と戊辰戦争の関連はみつからなかったのですが、今、中尊寺などが残っていることを考えると、土方歳三も各諸隊もここは通らなかったと思っていいのでしょうね。
金色堂が残っていることは嬉しいですが、道が一本違えば、戊辰戦争の結果も変わっていたかもしれません。


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