兼六園 弐 根上松

2009年06月13日
兼六園(石川県金沢市兼六町1-4)の根上松です。
兼六園6  兼六園8
大小40数本もの根が地上2mまでせり上がった奇観です。
この松は、13代藩主・斉泰が土を盛り上げて若松を植え、根を深く土で覆い、成長後に土を除いて根をあらわにしたものだと伝えられています。
樹高10m、幹周3.86mの黒松です。
兼六園などより


JR北陸本線金沢駅や北陸鉄道浅野川線北鉄金沢駅、あるいは北陸鉄道石川線野町駅です。
金沢駅・北鉄金沢駅からは、駅真正面の道を南東(真っ直ぐ)に歩いて行きます。
むさし交差点からどちらに曲がっても大丈夫です。
どちらもそれに続く国道を歩き、金沢城址を回り込み、国道157号方面なら香林坊交差点で国道を離れます。
国道159号方面なら、兼六園下交差点で国道を離れて下さい。
入口がいくつかあったと思います。

野町駅から行く場合は、駅を出て工場と反対に曲がります。
野町3丁目交差点で国道157号に出ます。
国道157号を進んで、犀川を渡りさらに国道157号を進むと、香林坊交差点に至ります。
そこで国道を離れて東に曲がると兼六園に着きます。

この松を見たとき、人工的に根を出したとは思いませんでした。
時間が経って、雨や風で土が流れてしまい、根が露出したのだと思いました。
でも違ったのですね。
わざわざ土を除いて根を出したとは…。
こういうものが美しいというのは、昔からあったのでしょうか?
それとも斉泰が独自に考えたものですか?
最初に考えた人はすごい感性の持ち主です。
なかなか思いつきませんし、それを“美”と感じるのも日本人ならではですか。

さて、幕末の金沢藩です。
文久3年9月、藩主前田斉泰は朝廷から京都警備を命ぜられましたが、応じようとはしませんでした。
藩主夫人は11代将軍家斉の娘で、藩主の周辺は佐幕派で固められていました。
これに対して、世子慶寧は松平大弐をはじめとする勤王派に支えられていました。

藩主の代わりに上洛した慶寧は、八月十八日の政変で都を追われた長州のために斡旋しましたが、徒労に終わりました。

翌元治元年、禁門の変では、病気と称した慶寧は加賀藩領である近江の海津へ勝手に立ち去ってしまいました。
藩主斉泰は朝廷と幕府ともどもに釈明し、世子慶寧を幽閉し、側近の松平大弐に切腹を命じ、勤王派40数人を処刑しました。
これを「元治の獄」といいます。

元治元年12月、越前入りした水戸天狗党は、鎮圧に出動した加賀藩に降りました。

慶応2年、慶寧が家督を相続、加賀藩は鳥羽・伏見の戦いに佐幕派としてのぞみましたが、旧幕軍の敗戦をしり、途中から兵を返しました。
戊辰の役には素早い転身を見せ、政府軍に属して越後長岡城攻めに参加しました。
幕末維新史事典より


藩の中、それも藩主と世子で対立していては、家臣もどちらに付けばいいのかこまりますよね。
鳥羽・伏見の戦いで佐幕派としてのぞんだのなら、最後まで貫いてくれればよかったのに。
戦っている途中で、旧幕軍の敗戦を知ったのか、戦う前に知ったのかで私の加賀藩に対する印象が変わりそうです(笑)
戦う前から寝返ったとなると…ねぇ…。

家臣の事を考えると負け戦はしたくないのでしょう。
この幕末の時代は、藩として思想を変えても仕方がないほど、時代の流れが大きかったと思います。
今まで日本で起こった戦いは、武将×武将でした。
“殿”とする人物を掲げて戦っていたと思います。
そうするとなかなか寝返るって事はありえません。
尊敬という心がありますから。
しかしこの戦いは、“外国をどうすか?”“天皇、将軍どちらを日本のトップにするか?”という全く違う次元の戦いです。
その時の流れによって、状況が全く違うので、どちらに付いて戦うかはその時によって変わってくるのだと思うのです。
それで普通かもしれません。

それでも初心を貫いたのが新選組かもしれないです。


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