安倍晴明神社

2009年06月04日
晴明没後2年の寛弘4年に建てられ、晴明の子孫と称する保田家が代々社家として奉仕していたと伝わる安倍晴明神社(大阪府阿倍野区阿倍野元町5-16)です。
安倍晴明神社1  安倍晴明神社2
江戸時代には、幕府の大坂城代が交替になるごとに、新任の城代が参拝したほど格式がある神社でした。
しかし、幕末に社家が没落するとともに衰微し、明治時代には文政年間に堺の住人神奈辺大道心が建てた「安部晴明誕生地」の石碑と小さな祠だけとなりました。
その後、大正10年に安倍王子神社の末寺として復興が許可され、大正14年に社殿が竣工し、現在の阿倍王子神社の飛び地境内の社殿に至っています。

安倍晴明神社に関係して、父親の保名を泰名大神として祀った泰名稲荷神社もあります。
この安倍晴明神社は、晴明生誕の地として伝えられる場所のひとつです。

安倍晴明神社に伝わる『葛ノ葉子別れ伝説』では、晴明の父・保名は阿倍野に住む豪族のひとりで、家来達を連れ、和泉の信太神社にお参りをしています。
その後、信太の森で酒宴をしている時、狩人に追われた白狐が逃げ込み、保名が隠してやりました。
狩人とけんかになり、、保名は傷を負います。
その時、白狐は葛葉と名乗る女性となって、保名の所へ現れて、保名を助け結婚し、晴明を生んだというのが出会いです。
(信太森葛葉稲荷神社に伝わるものとも、若干ニュアンスが違います)

保名のことを豪族と伝えていますが、阿倍野地方は、かつて奈良時代には古代豪族阿部氏が住んでいた地域でした。

安倍晴明の親寺となっている阿倍王子神社に伝わる文献によると、平安時代に弘法大師が参詣に来たとも伝えています。

晴明の命日9月26日には、晴明祭が行われています。


安倍晴明神社産湯の井1

安倍晴明神社誕生の地  安倍晴明神社産湯の井
安倍晴明誕生之地碑   晴明公 産湯井の跡

陰陽師「安倍晴明」超ガイドブックより

阪堺電気軌道上町線東天下茶屋駅の西側から歩きます。
南へ100m程度のところを西(府道30号方向)へ曲がります。
60m行った突き当りが安倍晴明神社です。

阪堺電気軌道というのは、阪堺電車と呼ばれ、さらに地元の人は“チン電”(私は“チンチン電車”といっています)と呼ぶ、路面電車の事です。

安倍晴明神社は住宅地の中にありました。
一本向こうには、府道がありバス通りなのですが、これほど違うのかなというように住宅地でした。
一度廃れてしまったからか、神社はこじんまりとしていました。
しかし、境内には、安倍晴明生誕地碑や産湯井の跡など、興味深いものがあります。

まさか安倍晴明が大阪の阿倍野で産まれていたとは思いませんでした。
安倍と阿倍野。
よくよく考えると、関係があってもおかしくないです。
ということは、安倍晴明は大阪人ということですね。
もし今生きていたとしたら、大阪弁を喋っているのですよ!
(当時は大阪弁はないでしょう。)
「あかんやん」「ええやん」「~やろ」「ほかして(捨てて)」「何してんの」等々。
イケメン俳優が、大阪弁で妖しと戦う姿は考えると笑ってしまいますね。

伝説によると、この井戸の水を産湯に使ったのですね。
白狐を母に持つ晴明ですが、どうやって産まれたのでしょう。
お下品な想像ですが、白狐の姿で産んだのか、人間の葛葉姫の姿で産んだのかと思ってしまいました。
産湯を使ったのですから、葛葉姫でしょうね。

聖徳太子も安倍晴明も写真というものが発明される、遥か昔に産まれているので、肖像画程度しか残っていません。
それがとても残念です。
聖徳太子のあの有名な絵は、聖徳太子ではないという説もあります。
聖徳太子も安倍晴明も、映像化されると格好良い人が演じられるので、男前のイメージがあります。
でも本当はどんな顔だったのでしょう。

当時は男前とされても、美の基準が違うので今見ると「えぇ~。」と叫んでしまうのでしょうね。
知らないほうがいいのかもしれません。
新選組の沖田総司も、似ているという子孫をモデルに絵が残っていますが、正直「え~。」と思いました。
もっと現代風のイケメンをイメージしてしまっていたので…。
江戸時代ですから、今のイケメンが当時のイケメンのはずがないのです。

そんな事を考えると、安倍晴明ほど古い人になると、伝説として色々なエピソードを楽しむ方がいいのかもしれません。


陰陽師(おんみょうじ) (文春文庫)陰陽師(おんみょうじ) (文春文庫)
(1991/02)
夢枕 獏

商品詳細を見る


大阪市阿倍野区
関連記事
Comment

管理者のみに表示