昆陽宿跡-新選組が長州藩荷物を押収

2009年05月13日
新選組が長州藩の荷物を押収した昆陽宿跡(兵庫県伊丹市昆陽3~6丁目付近)です。
昆陽は“こや”と読みます。
昆陽2  昆陽1
元治元年7月19日、禁門の変が勃発して、御所へ出動した新選組は21日になって山崎・天王山で真木和泉守らを追討し、その後、下坂して布陣、大坂市中に潜伏する長州兵らの探索を行いました。
7月23日、大坂・八軒家から三十石船に乗り、壬生村の屯所へ帰陣しました。

同日、新選組が探索中に得たと見られる押収品の記録が『官武通紀』にあります。
また、押収品の内容が少し異なりますが、同日の記録があり、同じくその場所を“昆陽宿”としています。

昆陽宿は、西国街道(山崎道)の通る、摂津国川辺郡昆陽村が宿駅として発展したところで、現在では、伊丹市昆陽1丁目から8丁目のうち、中心地にあたる3丁目から6丁目あたりとなります。

昆陽村は幕府領で、東西に10町48間、その道幅1~2間。
昆陽宿の町並みは7町余りで、ここより一つ東、京寄りになる瀬川宿へは二里、また、西宮宿へも二里ありました。
天保年間には、宿内の家数は約180軒。
本陣1軒で脇本陣はなく、旅籠屋は7軒のみでした。

新選組は、大坂に在隊しながら、この昆陽宿まで隊士を出張させて、禁門の変での残兵掃討を行ったものとみられます。
御所やその周辺、伏見・山崎で破れた長州兵は、京より陸路は山崎を通る西国街道を西へと撤退して行きました。
瀬川宿の記録では、具足を着用した約3,000人が、抜身のまま敗走し、西下していったといいます。

長州人らは、各宿駅で荷物を継ぎ立て、ここでも武器や荷物の移送を行おうとしていました。
長州への荷物に対して、監視命令が出ていたようです。
長州も瀬川宿からは、間道を使ってこの昆陽宿へ荷物を届けましたが、昆陽宿側では尼崎藩からの命令で、21日に届いた長州荷物を留め置きました。
この荷物は、また間道を通って運ぶように、長州側から指示されていたもので、昆陽宿役人は、これを24日になって奉行所へ届けました。

この訴えによって翌25日、昆陽宿にやって来たのが、新選組の河合耆三郎、山崎大三郎の二人でした。
彼らは、翌日この押収品を、大坂へ運ぶための人足の手配を指示しました。
しかし、この件はすんなりとはいかなかったようで、昆陽宿の役人は、これら押収品は大坂町奉行所の管轄であると主張しました。
役人が届け出た先も、奉行所でした。
それを河合耆三郎が26日の夜に、役所に出向いて引渡しを求め、なお山崎大三郎が27日にも交渉して、ようやく受領の文書を取り交わすことで合意し、新選組へ荷物を引き渡しました。
荷物の輸送には、100人ほどの人足が動因されたといいます。
昆陽宿の役人らは、翌8月6日付で、新選組に対して後難を避けるべく、この間の経緯を説明した丁重な一書を送っています。

先の分捕り品の届け書では、「高槻於昆陽宿」と記されています。
これは誤りのようです。
高槻は同じ摂津国であり、高槻城に近い宿駅に芥川宿がり、西国街道の宿場の一つです。
現在の高槻市中央を流れる芥川の左岸で、当時の高槻城周辺に、奈良から平安期に児屋郷(こやのごう)があったとされます。詳細は不明。
その時代の郷名が混同されるのは考えにくく、昆陽宿の場所を誤ることも考え難い。
西国街道の宿駅改めを行ったとすれば、山崎から芥川でもなされた可能性もありますが、一覧の内容については、昆陽宿での押収品で、地名の誤記であったと考えます。


河合耆三郎は、かわい“ぎさぶろう”と読むべきか。儀三郎とも。
播磨高砂出身。
河合儀平の長男。新選組隊士。勘定方。

文久3年6月ごろ入隊。
池田屋事変では土方歳三隊に属して屋外の守備につき、報奨金15両を受けました。
翌7月の禁門の変後、松本喜二郎とともに長州藩と摂津高濱村とのかかわりを調査し、無縁であるとの誓約書を提出させています。

12月の編成では原田左之助の小荷駄雑具方に属しました。
勘定方として、隊費の不算の責めを負って切腹しました。斬首ともいわれています。
不算の50両が郷里から届くことを最後まで待っていたといいますが、真偽は不明です。

享年29歳。
墓は京都府京都市中京区梛ノ宮町の壬生寺と、同賀陽御所町の光縁寺。
光縁寺の墓碑は新選組が建立したものですが、同寺の過去帳『往詣記』には埋葬の記録はありません。
遺体は新選組によって壬生村墓地に埋葬され、その後、姉弟によって「河合耆三郎源義輝之墓」という墓碑が建てられました。
現在墓碑は、壬生寺境内にあり、東京都北区滝野川7丁目の寿徳寺境外墓地にある、新選組慰霊碑にも名前が刻まれています。
戒名は国元で授与され、“遊林軒千空吉一良義居士”といいます。
新選組史跡事典&新選組大事典&新選組大人名事典より


JR福知山線伊丹駅か阪急電鉄伊丹線伊丹駅から歩いた場合。
JR伊丹駅を出て、西側に向かいます。(イオンと反対方向)
まっすぐ、まっすぐ歩くと阪急伊丹駅に着きます。
阪急伊丹駅から北に向かうと、SAKE市場グランマルシェ伊丹店の角に出ます。
その道路を西に、一ツ橋交差点、千僧6交差点と通り過ぎると、次の大きな交差点が昆陽6交差点(写真)になります。約1.2㎞です。
交差点から北側に、昆陽3丁目、4丁目、5丁目があります。

この写真は、撮れたてです。
今日の午前中に撮ってきました。

私は、新幹線の高架したを自転車で走り、美鈴町交差点から北に上がりました。
暑かったです。
もう少し北へ行けば国道171号との交差点が“昆陽”です。
今国道となっている場所の方が、街道筋だったのかもしれませんが、国道171号で写真を撮るのは今般なかなか難しいので、昆陽6丁目にしました。

こんな身近な場所まで新選組が出張していたとは…。
でも近藤勇、土方歳三、沖田総司ではないのですよね。
残念ですが、河合耆三郎はそれなりに(失礼)有名な方ですからね。

昆陽6丁目交差点付近は、東西には交通量が多かったのですが、南北は以外と少ない感じでした。
今の南北の道路(写真左)をみると、交通量のわりに道幅が広いです。
昆陽宿があったのもこんな感じの場所だったのかもしれません。
新選組隊士がこの辺りを歩いて、仕事をしたのです。

大刀を差して、河合耆三郎が歩いたのですね。
河合耆三郎の肖像画でもあれば見てみたいですね。
どんな容姿の人が歩いていたのでしょう。
でも切腹(斬首か?)させられた所をみると、あまり要領のよい人ではなかったのかな?
お坊ちゃまタイプかも…。
小説では大体このエピソードは出て来るので、多くの人は名前は知っているのではないでしょうか?

余談ですが、
北にある昆陽池は奈良時代の僧、行基が造りました。
(伊丹市には行基町という町名があります。)
その昆陽池に日本列島があるのはご存知でしょうか?
伊丹空港から飛行機に乗り離陸直後、下をみると昆陽池の上を飛んでいます。
着陸は逆方向から進入するので見られないはずです。
池の真ん中にある島が日本列島の形をしています。
伊丹空港から飛行機に乗る方はぜひご覧下さい。
私も見ました。


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昆陽池 写真
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