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阿弥陀寺・斉藤一夫妻の墓-壱

2008年04月24日
【斉藤一】

 母成峠の敗走後、更に戦う土方に異を唱えて分離し、会津残留を決めました。
 会津落城後、藩士たちとともに斗南に移住しました。明治4年に東京に出ました。

 藩主松平容保の上仲人、佐川官兵衛、山川浩らの下仲人で、会津藩大目付故高木小十郎の娘・時尾と結婚、藩主の松平容保から藤田姓を賜り、藤田五郎を名乗りました。
 明治10年2月、警視局に就職、5月、西南の役に出征、勲章を受けました。
 警視局を退職後は女子高等師範学校書記などを務めました。
 時尾との間に三人の男子をもうけました。生来の酒豪で、胃潰瘍になり、大正4年に死去しました。臨終時には床の間に座布団を重ね、その上に端座して息を引取りました。享年71歳。

 生前の希望どおり、阿弥陀寺の戦死墓のかたわらに眠っています。戦死墓には会津戦争における城下市街戦の戦死者のうち1,281人が合葬されています。

 
 父祐助(明石藩足軽、のち、株を買い御家人となる)と母ますの二男として誕生しました。
 江戸で生まれ育ち、新選組には京都で入隊し三番隊隊長として活躍しました。
 慶応3年、伊東甲子太郎らの新選組分離に従い、御陵衛士にスパイとして潜入。
 慶応4年3月、甲陽鎮撫隊を組織した近藤に従って甲州に出陣しましたが、柏尾で敗れた鎮撫隊は江戸に敗走しました。
 その直後、斉藤は五兵衛新田に行った形跡はなく、負傷兵らを連れて会津に先発しています。閏4月、会津戊辰戦白河の戦いに際して、宇都宮戦で負傷した土方歳三に代わり、山口次郎として新選組隊長を務めています。

 8月の母成の戦いの敗戦、会津城下に西軍が侵入し、会津は籠城。以前から仙台侯の蜜命で、旧幕軍は仙台に移行と決まりました。斉藤はそれに強く反対して、如来堂の一戦以来、少数の部下とともに姿を消しました。
 会津落城後は藩士らとともに斗南に配流となり、一戸伝八と名乗りました。
新選組史跡事典より


 会津戊辰戦争の時、城下戦で死んだ会津人の屍は賊として西軍から埋葬を許可されず、腐敗し、鳥や犬に食われ死臭が漂っていたそうです。
 嘆願の末にやっと16箇所の穴を掘り、投げ込むように埋葬されました。阿弥陀寺もその一つでした。山門の左奥に戦死者ら1,281人が眠る墓所があり、傍らには藤田五郎(斉藤一)の墓があります。
 この墓所は味方の遺体の埋葬を手伝った高木時尾(藤田の妻)へ、松平容保から賜ったものといわれています。
新選組大事典より
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