兼六園 壱

2009年06月12日
加賀100万石に造られた兼六園(石川県金沢市兼六町1-4)です。
兼六園4
徽軫灯籠
霞ヶ池の北岸にある徽軫灯籠は足が二股になっていて、琴の糸を支える琴柱に似ているのでその名が付いたと言われています。
高さは2.67mです。
傍らにはモミジの古木があり、曲水には虹橋が架かります。


兼六園2  兼六園1

江戸時代に加賀藩の庭園として造られたのが始まりです。
延宝4年に五代藩主前田綱紀が「蓮池亭」を造り、その庭を「蓮池庭」と呼びました。
これは、蓮池門を入った辺りで、現在7つある門の中で正門とされています。
当時は、金沢城の外郭として城に属していました。

文政5年に奥州白河藩主・松平定信によって「兼六園」の名が付けられました。
“兼六園”の名は宋代の詩人・李格非の『洛陽名園記』に由来します。
「宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望の六つを兼ね備える名園」との意味です。
13代藩主前田斉泰は天保8年霞ヶ池を掘り広げて増庭。
現在のものにほぼ近い形にしたとされます。

雪に備えて行われる雪吊は冬の風物詩です。
霞ヶ池を渡る石橋を琴に見立てて徽軫をなぞらえた徽軫灯籠は有名です。
園内の噴水は、日本に現存する最も古い噴水であるといわれています。
これより高い位置にある園内の水源、霞ヶ池から石管で水を引き、水位の高低差だけを利用して、水を噴き上げさせています。
そのため、水が噴き上がる最高点は、ちょうど霞が池の水面の高さになります。

兼六園の東南側には、13代藩主前田斉泰が母親である眞龍院の隠居所として建てた成巽閣が現存しています。
なお、金沢の地名は園内にある湧き水「金城霊沢」(きんじょうれいたく)が由来です。

長く殿様の私庭として非公開でしたが、1871年から日時を限っての公開が始まり、1874年5月7日から正式に一般公開されました。

1880年には西南戦争の戦没者を祀る明治紀念之標が建てられました。

文政5年(1822)、奥州白河藩主・松平定信によってその名を与えられました。
Wikipediaなどより


JR北陸本線金沢駅や北陸鉄道浅野川線北鉄金沢駅、あるいは北陸鉄道石川線野町駅です。
金沢駅・北鉄金沢駅からは、駅真正面の道を南東(真っ直ぐ)に歩いて行きます。
むさし交差点からどちらに曲がっても大丈夫です。
どちらもそれに続く国道を歩き、金沢城址を回り込み、国道157号方面なら香林坊交差点で国道を離れます。
国道159号方面なら、兼六園下交差点で国道を離れて下さい。
入口がいくつかあったと思います。

野町駅から行く場合は、駅を出て工場と反対に曲がります。
野町3丁目交差点で国道157号に出ます。
国道157号を進んで、犀川を渡りさらに国道157号を進むと、香林坊交差点に至ります。
そこで国道を離れて東に曲がると兼六園に着きます。

兼六園の名前はもちろん知っていました。
岡山の後楽園、水戸の偕楽園と合わせて三名園です。
しかし私はどこにも行った事がありませんでした。
この兼六園が初めてです。

この日はやっぱり雨でした。
私が旅行に出かけると、1日は絶対雨になります。
1泊2日なら、2日とも雨ということもあるぐらいです。
雨の兼六園も風情があっていいのでしょうが、見て歩くにはやはり晴れている方がいいですよね。
2度目、3度目なら雨でもいいかもしれません。
いろいろな風情を楽しめますから。

テレビなどでよく見る風景、徽軫灯籠がある風景を見たときは、“あっ、この景色しっている”と思いました。
やはりテレビや写真で使われるだけありますね。
印象的な景色でした。

広い庭園でした。
噴水が日本最古だと気付いていませんでした。
なので写真を撮っていません。失敗です。

観光客が多く来ていました。
観光バスで来ている人が多いようです。
兼六園は庭園で、金沢城址はまた別にあります。
今回は時間がなく、兼六園のみ見てきました。

よく城内にある庭と違うかな?
ん~、あまり詳しくないのですが、この庭全体でバランスがとられているのかな?
私はただただ、“広い”“変わってる”と思いながら見ていました。
やはり徽軫灯籠と虹橋が印象に残っています。

さて幕末の加賀藩については、「兼六園 弐」の記事に記します。


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(2001/10)
戸部 新十郎

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