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高野山挙兵

2009年05月05日
新選組隊士であった橋本皆助が、陸援隊に入隊後参加した高野山挙兵の地、高野山(和歌山県伊都郡高野町高野山)です。
高野山1
根本大塔
落雷等の火災にあい現在の大塔は、昭和12年に完成しました。

高野山4
御影堂
弘法大師の持仏堂、念誦堂とされる建物で、本尊に真如親王筆の大師の御影をお祀りしています。
現在の建物は弘化4年の再建です。

高野山2
手前が准胝堂、奥が孔雀堂
准胝堂は、明治年間に再建された新しいものです。
本尊の准胝観世音像は平安初期の作風で、大師自ら彫刻されたと伝えられています。

孔雀堂は、後鳥羽上皇の御願により祈雨の修法をするために正治2年に創建されました。
現在の建物は、昭和57年の再建です。
本尊の孔雀明王像は、仏師快慶の作として有名です。

高野山3

高野山は、約1200年前に、弘法大師(空海)によって開かれた、真言密教の修行道場です。
高野山真言宗の総本山です。
標高は約900mです。

橋本皆助は、新選組隊士。
元大和郡山藩士で、安政年間には江戸詰となっていました。
本名は藤井勇七郎、同藩の橋本家の養子となって、皆助と改めたといいます。
水野弥太郎、水野八郎と改名しました。

元治元年3月、水戸天狗党の同志募集に応じ、脱藩して集義隊に加わりましたが、敗れて京に上り、新選組に加入したといいます。
入隊の時期は、慶応2年9月12日の三条制札事件に出動したさいに、まだ仮同志とされていることから、同年夏以降のことと考えられます。

三条制札事件では、浅野薫とともに斥候をつとめていました。
不審人物が制札に手をかけると、隊士が待機する三条通の酒屋と、先斗町の町会所に通報して、自らも刀を手に現場に走っています。
具体的な行動は伝わっていません。
しかし、働きが認められ、会津藩より褒賞金が与えられ、平隊士に昇格し、伍長とつとめるまでになっています。

慶応3年3月、伊東甲子太郎らが新選組から分離するさいに同行し、御陵衛士の一員となっています。
その後、8月に土佐の中岡慎太郎を隊長とする陸援隊が結成されると、御陵衛士を脱し、水野八郎名前で入隊しました。
鷲尾隆聚のもとに出入りして、その頃に作成された誓約書「有渝新盟」に本名の藤井勇七郎で署名しています。
12月8日には鷲尾隆聚の高野山挙兵に、陸援隊の同志とともに参加し、田中光顕を隊長とする東一番隊の伍長として、水野八郎の名前で記録されています。
翌年1月の鳥羽・伏見の戦いには高野山にいたため参戦していませんが、戦後は京都に戻って幹部隊士とともに軍曹に任命され、二条城中人数取締の役につきました。

その後、軍防裁判所頭取助役兼追捕手取に就任しましたが、明治2年には金銭的錯誤から免職のうえ禁錮となり、3年9月1日に放免、4日に郡山藩への復籍が命じられました。

その翌年の明治4年4月16日に37歳で死亡しましたが、暗殺との風聞も流れたといいます。
墓は奈良県大和郡山市西岡町の常光寺にあり、戒名を利長院義明日正居士といいます。

墓参すると腹痛が治ると言い伝えがあることから、腹部の内臓疾患による病死だったかもしれません。
高野山HP&新選組大人名事典より


南海電鉄難波駅~極楽橋駅の間を特急は1日に4往復、急行は約30分毎に1本の間隔で運行しています。
極楽橋駅からケーブルに乗り換えて高野山駅へ向かいます。
和歌山・奈良方面からは、JR和歌山線橋本駅で南海高野線に乗り換えです。
高野山駅から高野山への入口女人堂まで、約1.6㎞あります。
歩いても行けますが、バスが走っているのでバスを使うと便利です。

高野山は癒されます。
空気が全然違います。
静寂が心身ともに心地いいです。

京都のお寺とは異質なものでした。
あくまでも私見で印象です(実際にそうであるという事とは違います)が、
京都のお寺は、歴史という言葉をかざして、お金にも細かいという印象。
奈良は、素朴で親切な親近感のある印象。
そして高野山は、修行の場であり、お坊さんが弘法大師に寄り添って、人の罪も許そうとしている印象です。
この空気は好きです。

私が最初に高野山を訪れたのは、短大のゼミでの旅行でした。
初めて宿坊に泊まりました。
感動した事が2つ。
ひとつは平安時代頃の書物をガラス越しではなく、目の前数十㎝で何冊も見せていただけた事。
同学校の大学(or大学院か忘れてしまいました)の方の研究の為、教授が1ページずつ写真撮影をしていたところにお邪魔させて頂いたのです。
経典382  巻物383
平安期の経典と巻物だそうです。

ふたつ目は、朝のお勤め、宗教上もちろん強制ではなかったのですが、ほぼ無宗教の私はお勤めに出ました。
6~7人もお坊さんがいたでしょうか。
それだけの方が般若心経を唱えると、ずっと聞いていたいような気になりました。
お腹に響くような…。
8月末に行ったのですが、下界とは5度ぐらい違って涼しかったです。

2度目はつい最近でした、何年経っても変わっていなくてホッとしました。
2度目は親のリクエストで日帰りで行ったので、歴史上の有名人のお墓めぐりなどをしました。

こんな高野山なのに、幕末には挙兵という血生臭い舞台になっていたのです。
想像できません。

橋本皆助という人は、集義隊→新選組→御陵衛士→陸援隊と…、何がしたかったのでしょう。
時代を読む力があったという事ですかね?
高野山のどのあたりで何があったのかまでがわかりません。
新選組の史料だけでは、ここまでが限度でした。
調べてみて、判ったらまた補遺として追加します。


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