広隆寺

2009年05月29日
京都最古の寺院で、有名な弥勒菩薩半跏像がある、広隆寺(京都府京都市右京区太秦蜂岡町)です。
広隆寺1200
京都最古の寺院で、聖徳太子建立七ヵ寺の一つです。
また秦氏の氏寺とされ、寺号は創建者である秦河勝の実名「広隆」にちなむといいます。
古くは蜂岡寺と称しました。
秦氏は5世紀後半に朝鮮半島より渡来した有力氏族で、治水・潅漑や養蚕・機織などの進んだ技術を背景に経済力を蓄えました。
山背(山城)国葛野郡が本拠地で、広隆寺はその氏寺でした。
創建期の伽藍は、現在の平野神社(京都市北区)のあたりにあったといいます。

『日本書記』の603年には、秦河勝が聖徳太子より仏像を賜り、蜂岡寺を造って祀ったとあります。
この仏像が国宝指定第一号として有名な“木像弥勒菩薩半跏像”といわれています。
616年に新羅の使者が奉った仏像と伝えられる“宝髻弥勒半跏像(別名 泣き弥勒)”もあります。

「九条河原里荒見社里」から「五条荒蒔里」(現在地)に移転したとされますが、旧寺所と移転の時期については諸説あります。

10月12日の夜、牛に乗った摩多羅神が槍を携えた四天王を従えて境内を巡り、金堂前の壇上で祭文を読み上げる奇祭「牛祭」が境内の大酒神社で行われます。
聖徳太子の本&日本の国宝015より


蜂岡寺礎石201
右京区役所から出た蜂岡寺の礎石

桂宮院202
桂宮院本堂
建長3年、中観上人により再建されました。
八角円堂の建物で、桧皮葺の緩やかな屋根をもち、しかも軒の反りが強いです。
推古天皇11年に聖徳太子が殿舎を建てられ楓野別宮と名づけられました。
後にこれを寺として桂宮院と号しました。


京福電鉄嵐山本線太秦駅の北側です。
駅を降りると目の前に仁王門が見えます。

太秦という地名の由来は、
秦氏が大和政権に税を納める際、用いた絹が「うずたかくつもられた」ことから、朝廷から「うずまさ」の姓を与えられ、これに「太秦」の漢字表記を当てたという説。
秦氏の拠点であったことから、拠点という語義を「太い」という字で表し、「まさ」は秦氏の「秦」をもって表記し、「うずまさ」と呼ぶようになったという説。
Wikipediaより
などがあります。
歴史か地理かで習った記憶があります。

広隆寺に出かけたのは、いくつか見たいものがあったからです。
まずは仁王門…の前にある、蜂岡寺の塔心礎です。
蜂岡寺のものですから、当時の古いものです。
秦河勝が見た蜂岡寺のものかもしれません。
何年前のものなのでしょう…。

2つ目は、これが本命といってもいいのかもしれません。
“弥勒菩薩半跏像”
霊宝殿に入ると、薄暗い室内に弥勒菩薩半跏像が微笑んでおられました。
元は金箔に覆われていたそうですが、金箔は全部剥がれ落ちていましたが、私は今の方がいいような気がします。
煌びやかよりも落ち着きます。
穏やかな雰囲気の仏像で、ずっと見ていたい…、何度でも見てみたいと思いました。
私もついつい霊宝殿から離れがたく、長居をしてしまいました。
中宮寺の菩薩半跏像とともに、とても惹きつけられる仏様でした。

3つ目は、桂宮院です。
聖徳太子の史跡巡りとして訪れたのならば、聖徳太子をまつる桂宮院は見ないといけません。
が、この桂宮院は4、5、10、11月の日曜・祝日しか拝見できません。
法隆寺夢殿と同じ八角円堂というところが、聖徳太子を思い起こさせますね。
ただし、これは1251年以降に造られたもののようですので、聖徳太子が直接造ったり、関わったものではないのです。
夢殿は瓦の屋根ですが、こちらは桧皮葺なので柔かい印象を受けます。
夢殿の方が、どっしりとしていますね。

そして最後は、上宮王院の聖徳太子立像です。
この立像は、歴代天皇の即位式に用いられた黄櫨染の御袍と同じ物を、その一代を通じて着用しています。
現天皇の即位の後も、古式に則って御袍下賜がありました。
すごく特別な感じがしますよね。
日本では聖徳太子は特異な位置にあるように感じました。
この御袍の下は、彫刻された下着姿だそうです。
そんな事を念頭に置きながらこの立像をみると、御袍を脱がれた姿も見てみたくなりました。
罰当たりですか?

広隆寺は京都にありながらも、JR京都駅や阪急・京阪四条駅周辺とは雰囲気は全く違います。
中心部より人々の生活感がある感じがします。
この広隆寺の裏、北側に東映太秦映画村があります。
時間があれば時代劇に浸ってみてはどうでしょうか?


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小川 光三

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魅惑の仏像 弥勒菩薩―京都・広隆寺