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小墾田宮跡

2009年05月08日
冠位十二階、十七条憲法にゆかりの小墾田宮跡(奈良県高市郡明日香村雷)といわれる場所です。
小墾田宮跡1380  小墾田宮跡2381
603年に推古天皇が豊浦宮より移した宮室です。
冠位十二階の制定や、十七条憲法の発布などがこの宮で行われました。

明治時代には金銅製四環壺が出土されたと伝えられていますが、現在は古宮土壇だけが残されています。
『日本書紀』『続・日本書紀』によると、小墾田宮は推古天皇にはじまり、離宮や兵庫として奈良時代まで存続していたことがわかっています。

昭和45年の発掘調査では、土壇の南側で7世紀前半の小池と石敷が見つかり、推古天皇時代の庭園跡と判明しています。
現在駐車場になっている場所でも7世紀前半から後半にかけての建物群がみつかっています。

しかし昭和62年の、飛鳥川を隔てた東側にある雷丘東方遺跡で奈良時代の井戸から、「小治田宮」と墨書きされた土器が多数出土しました。
少なくとも奈良~平安時代の小治田宮は、雷丘東方遺跡であることが判明しました。

これらの事から、推古天皇の小墾田宮も雷丘周辺にあったと考えられるようになりました。
よって古宮遺跡は蘇我氏に関わる庭園とする説が有力になっています。
聖徳太子の本&説明板より


石川池からさらに東へまっすぐ行きます。
約700mで飛鳥川が流れていますが、その手前の駐車場に説明板(写真右)があります。

この写真を撮ったのが説明板に書かれている、建物群がみつかった駐車場でしょうか。
この場所は他の明日香村探索とは違い、つい最近に行った場所です。
土が盛り上がった場所に、気が1本立っている写真は聖徳太子関連の写真では割と目にしますね。
同じ場所を見つける事が出来て嬉しかったです。
なにも建物が無く目印になるものが映っていないので、見ける事ができるか…わかりませんでした。

しかし発掘調査などで、小墾田宮跡はここではなく、雷丘付近という説が有力になっています。
この雷丘はここから数百m東に行った場所です。
川を渡って、次の交差点の南西あたりに、「小治田宮の墨書土器出土地」があるようです。
その北側に雷丘とされる場所があるようです。
数百m違いですからね…。

幕末の史跡でさえ、確かな場所が判らない所も多々あります。
西暦603年です、今から1400年以上前の史跡の数百mなんて…と、思ってしまうところもあります。
もちろん正確な位置が判り、いろいろな発掘がされると嬉しいですし、興味もあります。
それでも歴史の長さからすると、なかなか難しいのだろうなという事はわかります。
場所が特定できても、何かが残っている可能性は低くなりますよね。

幕末以上に歴史の“ロマン”という言葉が似合いそうです。


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明日香村
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