中根雪江(靱負)邸跡

2009年05月01日
【また聞き ⑦】

中根雪江邸跡(福井市宝永4丁目3-28)です。
中根雪江邸跡1317  中根雪江邸跡2318

中根雪江像が福井市宝永3丁目の神明公園内に建てられています。
また中根雪江翁顕彰碑が福井市大手3丁目の佐佳枝廼社境内にあります。
中根の友人勝海舟の撰文染筆によるもので、篆額は春嶽の揮毫です。
明治25年建立され、福井震災で倒壊しましたが修復再建されました。


中根靭負(雪江)は、通称をはじめ栄太郎、晩年に雪江。本姓は桓武平氏。
雅号に雪江、拘堂、拙舟。
福井藩士。
父は同藩士・中根孫右衛門、母は平本藤七郎の娘・三木(幸または佐知とも)の長男。
越前国福井城下の生まれ。
天保元年10月に家督を嗣ぎ、700石。
平田篤胤に国学を学び、松平慶永の側近として活躍しました。
同時代の人の評によれば、寛容寡黙にして質素な人であったようで、周囲の信頼も厚かったといいます。

文久3年5月18、19日両日にわたって勝麟太郎と会見し国事に関する意見を交換しました。
27日には京都藩邸を訪ねた龍馬と面談しています。
このとき龍馬は諸外国の干渉を排除することの必要性を説き、いまこそ慶永が速やかに上京して国内の意思統一のため尽力すべき時ではないかと、中根に福井藩への積極的な働きかけを促しています。
ところが翌6月福井に帰った中根は、重臣会議の席上で横井小楠らが慶永父子の上京を主張したのに対し、いまだ機が熟していない反論し、重臣会議分裂の責任をとらされて蟄居を申し付けられています。
11月に蟄居を解かれて上京し、引き続き公武間を往来し国事に鞅掌します。

王政復古ののち新政府の参与となりますが、5月に免ぜられて8月帰国し著述に専念しました。
東京市麹町区1番地の岩佐病院において脚気症により病没。享年71歳。
明治18年贈従四位。
墓は東京都品川区南品川5丁目の海晏寺。
坂本龍馬大事典より


福井電鉄福武線裁判所前駅下車、電車に沿って裁判所前交差点まで行きます。約200m。
さくら通りを左に曲がり、三井生命ビルを戻る方向へ曲がります。
50mほど戻った所にあります。

龍馬と会ったことのある人物なのですね。
龍馬と福井といえば、松平慶永や横井小楠、三岡八郎(由利公正)が先に出てきてしまいます。
中根靭負とう名前は聞いた事がもちろんありましたが、詳しい人物像は勉強不足です。
新選組だけでなく、その周辺ももう少し勉強した方が、もっと違った方向から新選組を見ることが出来て楽しいかもしれませんね。

幕末の意外な人間関係とか、楽しいものですものね。


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