武田耕雲斎墓-松原公園

2009年04月29日
【また聞き ⑤】

松原公園(福井県敦賀市松島町2丁目)に武田耕雲斎墓があります。
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元治2年、水戸藩士武田耕雲斎・藤田小四郎以下353名が処刑された来迎寺(松原)跡に建てられました。
茨城県水戸市見川2丁目103の妙雲寺にも墓があります。


武田耕雲斎は、水戸藩士。
名は正生、字は伯道、通称は彦五郎、伊賀のちに修理と称しました。
跡部正続の長子、宗家跡部正房のあとを継ぎましたが、甲斐武田氏の後裔として武田姓を名乗りました。

文政12年藩主斉脩の継嗣問題に斉昭を推戴、戸田忠大夫らと出府して運動し、このため使番から小普請組に落とされましたが、間もなく目付けとなり、改革派に重きをなしました。
天保11年、学校造営掛として、弘道館建設にあたりました。
この年、門閥派の巨頭結城寅寿とならんで参政に就任しました。
天保13年、結城が執政となると、退けられて大番頭となりました。

弘化元年藩政改革が急進的であるとして、斉昭に慎隠居の幕命が下ったさい、吉成信貞とともに老中水野越前守、牧野備前守に冤を訴え回復をはかりました。
このため禁固され、翌年致仕、隠居を命ぜられました。
耕雲斎と称したのはこのときからです。

嘉永2年、斉昭が藩政関与を赦されるにともなって赦免、大番頭、参政を経て安政3年正月執政となりました。
この年、結城は死罪、門閥派の多くは罪を被って退けられました。
攘夷論者として幕府の開港政策に反対、斉昭に建議したこともありました。
同5年8月、斉昭の不時登城、藩内動揺の責任によって、岡田兵部、大場一真斎とともに執政をやめさせられました。
以後この2人とともに三隠大夫、三老とよばれ、激派の尊敬を受けました。
同6年末、水戸藩下付の攘夷の密勅返上を幕府が命じましたが、これに反対論をとなえ、会沢正志斎らと対立しました。
万延元年の桜田門外の変などによって激派の力がつよまり、藩庁の統制がおよばなくなった事態のなかで岡田、大場と執政に復帰しました。
もっとも強く攘夷を主張する大津彦五郎ら過激派玉造勢の鎮圧にあたりました。

文久元年、東禅寺英国公使館襲撃事件によって失脚、翌年復職しました。
文久3年2月、一橋慶喜上京のさい慶喜の懇願により随行、京都では水戸藩尊攘派総帥として公卿、志士との交流を深めました。
その名声を利用して、京都に横行する志士を率いて兵庫港防衛にあたらせ、激発を防ごうという意見も強まりました。
耕雲斎自身必ずしも攘夷論者ではなくなりますが、4月慶喜の東帰に先立って江戸に戻り、横浜鎖港の意見を幕閣につたえました。
水戸藩にもどり、領内沿岸を査察するとともに、9月調練総司を兼務して那珂湊、小川、潮来の郷校に拠る激派の鎮圧にあたりました。

元治元年2月、従五位下伊賀守に叙任。
田丸稲之衛門、藤田小四郎らの筑波挙兵に山国兵部らを派遣して鎮撫につとめました。
5月幕命により慎隠居を命ぜられ帰国、市川三左衛門ら門閥派が藩権力を握りました。
7月門閥派の亡状を憤り兵を率いて南上、松戸に至りました。
翌8月、藩主代理松平頼徳が水戸に赴くのに随行を求めて拒否されますが、これに従って館山に布陣しました。
幕府、諸生党の軍勢と各所に戦い、頼徳随行の榊原新左衛門と共同戦線をかたちづくりました。
10月、榊原は投降にあたって耕雲斎の首級持参を約束、兵火を交えました。
西上を決意し、1千人の兵の総大将となり、山国、田丸、藤田らとともに出発、越前新保駅にて金沢藩に降伏しました。
敦賀におくられ、翌2年2月4日、同志とともに斬罪に処せられました。

敦賀において処刑されたもの斬罪353人、遠島137人、水戸渡し130人、永厳寺預け(15歳以下の少年)11人というものでした。
構いなく追放に処せられたもの187人。
耕雲斎および山国、田丸、藤田の首級は江戸におくられたのち水戸の城下で引き回され、七軒町札場、上町、吉田境橋、那珂湊で梟されたのち野捨てにされました。
水戸に残された妻子も梟首、孫も斬罪に処せられました。
幕末維新人名事典などより


JR北陸本線敦賀駅より 福鉄バス利用約10分「松原公園口」停留所下車が近いそうです。
敦賀駅から2.5㎞弱あるようです。

武田耕雲斎は名前程度にしか知りませんでした。
水戸天狗党や藤田小四郎の名前も耳にはしていましたが、詳しくは知りません。
新選組の初代局長芹沢鴨が水戸天狗党のいたというので、水戸天狗党の名前はよく耳にはしていたのですが、これほど強烈なものだとは思っていませんでした。

新選組も“局中法度”や“粛清”と、血を流すことが多くありました。
その為、現在でもあまり良く思わない人もいると思います。
しかしこの水戸藩に比べたら…。

武田金吾という武田耕雲斎の第7子はまだ2歳なのに処刑されています。
2歳の子まで処刑しないといけないのでしょうか?
武士の掟ですか?
元服していて、自分の意思(まったくの自分の意思とは云い難いでしょうが)で行動していたならばまだしも、2歳の子が政治的な事を考えて、行動するわけがないではないですか。
2歳や8歳、9歳の子供達が斬首などになっているのを知って、今、すごく暗い気分になっています。

新選組は本人は殺される事があっても、政治的に関係のない家族には手を下していないはずです。
近藤勇の奥さんだって、命はとられる事はなかったではないですか。

なんだか、水戸藩が怖くなってきました。
水戸黄門はいい人なのに…。時代劇の中ですが。


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