母成峠-壱

2008年04月19日

母成峠 福島県耶麻郡猪苗代町母成

母成峠の戦いについて、新選組史跡事典新選組大事典より勉強しました。

 新政府軍は若松侵攻のため二本松・本宮に3000の兵を終結させ、中山口に400の陽動部隊を進め、残る2600の兵で母成峠を攻略する事に決めました。 

 母成峠の陣は、石筵の北方2㎞の萩岡に第一台場、さらに北方3.5㎞の地点に中軍山とその両翼に広がる第二台場、ふたつの台場のほぼ中間にあたる八幡山に第二台場の前進陣地が置かれ、峠の頂上に本営がありました・頂上部には土塁柵と二ヶ所の関門があり、後方には20軒ほどの陣屋が設けられ、守備陣の総員は800名ほどだけでした。

 慶応4年8月21日午前4時、新政府軍は進軍を開始し、午前9時ごろに峠頂上から号砲が響きました。これが開戦の合図で、会津藩兵は続々と関門を繰り出し、一時間後に石筵口の戦いは始まりました。
 砲撃戦が展開されましたが、新政府軍の火器の前に陣は壊滅しました。

 新政府軍は八幡山の陣を突破しました。、さらに
中軍山でも新選府軍の砲撃に敗色が濃くなり、ほぼ同時に勝岩と中軍山は突破されました。

 頂上の本営には敗兵が続々と駆け込み、全山を濃霧が覆って混乱に輪をかけました。そこに新政府軍の迂回部隊が潜入し、陣屋に火を放ち、退去命令の伝達もできないまま、全軍は総崩れとなって大原・木地小屋方面へと敗走しました。午後4時ごろだと思われます。
 母成峠一帯の戦いにおける会津・二本松・唐津藩の討死者は45名、新選組は6名、仙台藩や伝習隊の討死者は不明です。一方、新政府軍は51名でした。

 標高973mの峠の頂上は整備されており、そこに「母成峠古戦場」の石碑が建立され、その中央台地に土塁跡があります。かつてはその麓に「堡塁」の案内板がありましたが、現在は確認できません。
 近くに「東軍殉難者慰霊碑」と「東軍殉難者埋葬地」があります。

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