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西郷從道邸

2009年04月20日
博物館明治村(愛知県犬山市内山1番地)に移築されている、西郷從道邸です。
西郷從道邸301
旧所在地 東京都目黒区上目黒

木造総二階建銅板葺の洋館は、明治10年代のはじめ西郷隆盛の弟西郷從道が東京上目黒の自邸内に建てたものです。

西郷從道は、明治初年から度々海外に視察に出掛け、国内では陸・海軍、農商務、内務等の大臣を歴任、維新政府の中枢に居た人物で、在日外交官との接触も多くありました。
そのため「西郷山」と呼ばれる程の広い敷地内に、和風の本館と本格的な洋館を接客の場として設けました。

屋根に重い瓦を使わず、軽い銅板を葺いたり、壁の下の方にレンガをおもり代わりに埋め込み、建物の浮き上がりを防いでいること等に、耐震性を高めるための工夫がみられます。

西郷從道は、薩摩藩士。海軍大将、海軍大臣。侯爵。隆盛の弟
隆盛は4人兄弟(妹は3人)でしたが、次弟吉次郎は戊辰戦争、隆盛と末弟小兵衛は西南戦争で戦死しました。この從道だけが生き残りました。
幼名は信吾。
尊攘派として精忠組に参加。
文久2年の京都義挙に加わり寺田屋に集合していましたが、島津久光が鎮撫の上意を発したのを聞くと刀を捨てて降伏しました。

元治元年2月、流罪を解かれた兄隆盛を迎えに沖永良部島に行きました。
鳥羽・伏見の戦いで耳から首にかけて弾を受けましたが、軽傷で済みました。
戊辰戦争には、越後口に出陣しました。

明治2年3月、長州の山県有朋とヨーロッパの軍制を調査のため渡欧、アメリカ経由で帰国、兵部権大丞になりました。
明治4年7月、隆盛、大山巌との3人で薩摩を代表、長州側と廃藩置県の密約に参加し、決定しました。
明治7年陸軍中将となって陸軍薩摩閥を代表する位置に立ち、前年参議を辞して鹿児島に帰った隆盛と反対の立場に立ちました。
台湾征討では台湾蛮地事務都督として最高指揮者となりました。
事前に鹿児島に赴き、征韓に替えて台湾を討つ事を理由に隆盛の政府復帰を誘いましたが、拒否されたといいます。
しかし隆盛は300の兵を出してやりました。
明治10年の西南戦争にさいしては動きませんでした。

その後、文部卿、陸軍卿、農商務卿を歴任、第一次伊藤内閣の海軍大臣となって以降、歴代内閣の海軍大臣や内務大臣をつとめました。
明治25年6月創立の国民協会の会長となりましたが(副会長品川弥二郎)、翌年春に退会しました。
明治31年。元帥府に列しました。
博物館明治村&幕末維新人名事典より


北口から入ったため、西郷從道邸は一番遠い場所にありました。
雨は降ってくるし、閉館時間は迫るは…で、ちょと焦りました。
しかしそのお陰で、最終ガイドツアーに参加する事ができました。
自由見学できる1階だけでなく、2階にも上って見学しました。

明治村に建っているからか、こじんまりとした建物に見えました。
きっと町の住宅街にあると、広大なお屋敷なのでしょうね。
2階のベランダでは、大理石かと思っていたら、鉄板を白く塗ったものだったりと驚きました。
軽くする工夫だったりするようですが、その加工・装飾は全部手作り(機械での技術はまだなかった)だそうです。
職人さんも仕事とはいえ、嫌になってくる数だったでしょうね。

この建物内にある椅子にも座れます。
ソファーにも座りました。
2階にはピアノもあります。
鍵盤には象牙が貼ってありましたが、そのピアノも触ってOKでした。
弾いてもOKです。
日本楽器製造株式会社製だそうです。現:ヤマハ株式会社製ということです。
実際に触れられるというのは、とっても嬉しいですね。
何もかもが“歴史的遺産”という事で、ガラス張りのケースの中だと、ただ単に見るだけの事ですから。
ガラスケースに入れて保存する物、実際に触れて伝える物をちゃんと選別して、後世に残して行くというのが一番いいのではないでしょうか?

西郷隆盛は西南戦争で亡くなっているので、明治10年代に建てられたこの建物は目にする事はありませんね。
隆盛と從道は兄弟でも、後半生は全く違う生き方をしています。
性格も正反対だったのかな?
しかし、政治の中心で国を動かそうとした事に関しては同じだったようです。
求める結果が違ったので、道が分かれ、生き方が変わってしまったのですね。


西郷隆盛伝説西郷隆盛伝説
(2007/05)
佐高 信

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博物館明治村
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