長光寺-維新史跡贈正四位僧月性龍護遺跡

2009年04月11日
坂本龍馬や吉田松陰にも関係がありそうな長光寺(大阪府大阪市中央区島町2丁目2-19)です。
長光寺1357  長光寺2358
龍護は月性の叔父で、長光寺の住職です。
月性が京都や大坂に遊学する折は、この叔父に頼ることが多かったようです。

また庫裡の3階には坂本龍馬や吉田松陰も宿泊したことがあるそうです。
密議を行ったりもしたとか。

月性は西郷隆盛と心中した月照とは別人です。
月性は長州の僧。
字は知園、清狂と号しました。
周防遠崎妙園住職。15歳のとき郷里を出て、江戸、京大坂、上野、北越を遊歴しました。
その時に名士と交わり、詩人としての名は広く知られるようになりました。
「男児立志出郷関」は今でも愛吟されています。

海防の急務を説いて激しく尊皇攘夷を主張しました。
安政3年春、本願寺法主に時務について数千言を作って呈出し、招かれて上京し東山別院に寓居することになりました。
この頃京都は政争の渦中にあり、梁川星巌、頼三樹三郎、梅田雲浜ら過激な尊攘論者が活動しており、月性も彼らと交わり、さらに戦闘的尊攘論者となっていきました。
単身紀伊和歌山に出かけ、その持論である海防急務策を講演して、人々を奮起させ、海防僧などと称されて名を喧伝されるようになりました。
しかし海防の急務を説くことは、それを怠る幕府の批判につながり、幕府から忌諱されるようになりました。

安政4年秋に帰国し、翌5年本願寺から再び招かれましたが、5月に急死しました。享年42歳。

月性は吉田松陰とも親しく、安政2年頃から時事を論じて、詩文の批評を交換しあっています。
長州藩の多くの志士はこの月性の影響を少なからずうけて尊攘運動をするようになりました。
また松陰の希望で金子重輔のために弔詩を全国各地の知友に求めてあげたり、安政5年松下村塾生と藩政府の対立を調停するなど、松陰のために大いに尽力しました。
松陰も深く謝して刑死する前に、『仏法護国論』『清狂吟稿』などの出版を門人に遺言しています。
幕末維新人名事典より


京阪電鉄天満橋駅、大阪市営地下鉄天満橋駅を降ります。
天満橋交差点から、京阪シティモールの前を西へ250m行くと、尼崎信用金庫があります。
その西側の道を渡り南へ(北側は川なので行き止まりです)。
坂を上りながら150mの場所に長光寺があります。

ここに碑があるのは本当に偶然でした。
大坂城や大川沿いの桜を見にいった後、ブラブラと歩いていたら“維新史跡”の文字が…。
月照と月性を混同しつつも、聞いた事があるなと、写真を撮りました。
新選組関係の本ばかりの私の手元には、長光寺の事がかかれた史料がありませんでしたが、どうにか碑に書かれている“龍護”は月性の叔父で、この場所に龍馬や松陰が宿泊した記述をみつけました。
その瞬間、「えっ?! 龍馬と松陰が泊まっていた?」
「うっそぉ~!!」(死語ですね 笑)
と固まってしまいました。

龍馬の事は多少なりとも、調べていたつもりですが、全くしりませんでした。
ここに龍馬が来た?
松陰も来た?
ちょっと信じがたい事でした。
確かにこの坂を下りた辺りが、八軒家浜船着場ですから、京と大坂の行き来に船を使うとここが発着場になるので、この付近に泊まった事は大いにありえます。
龍馬は考えられても、松陰はなかなかイメージと結びつきません。

龍馬もこの坂を上り下りしたのでしょうね。
ん~、当時は大坂城の天守閣は無かったので、今と同じ景色ではありません。
でもこの同じ地を歩いたと思ったら、新選組ファンで幕末ファンとしては嬉しいです。

一本道を入っただけで、人通りも少なくて静かでした。
日曜日だった事もあるのかもしれません。
すぐ東側は大阪府庁や大阪府警、官庁街ですから平日は賑やかなはずです。
長光寺周辺はマンションが多いような場所でした。


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