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名古屋城-藩訓秘伝の碑

2009年04月13日
名古屋城(愛知県名古屋市中区本丸1-1)内にある、藩訓秘伝の碑です。
藩訓秘伝の碑2  藩訓秘伝の碑1-1
初代藩主・徳川義直の直撰「軍書合鑑」の中にある一項の題目で、勤王の精神について述べています。
歴代の藩主はこれを藩訓として相伝し、明治維新にあたっては、親藩であったのに、勤王帰一を表明したといわれています。

尾張藩は三家。
尾張藩祖徳川義直の正統は9代宗睦で絶え、以後、将軍家から押しつけられた移入藩主が続きます。
藩校明倫堂の教授、学生、下級藩士を主体とする金鉄党はこれを嫌い、支藩高須藩主の次男義恕(慶勝)を盛り立てました。義恕が尾張藩14代藩主になるのは嘉永2年6月です。
これと対抗するのは、「ふいご党」で付家老の竹腰正と結びました。
藩主慶勝は条約勅許問題で井伊大老を責めたことで隠居、謹慎を命じられ、安政5年7月、江戸戸山の別邸に幽せられました。
そのあとを高須から入って実弟の茂徳が継ぎ、佐幕派の頭目である家老の竹腰を重用し、慶勝の腹心田宮如雲らを蟄居、減禄に処しました。

文久2年4月、慶勝は謹慎を解かれ、攘夷派の金鉄党が復活。藩主茂徳は翌年、引退しました。
このあと、慶勝の三男義宜が6歳で継ぎました。
同年、朝命によって将軍家家茂補佐に任ぜられた慶勝は、元治元年8月、第一次征長に征討軍総督を拝命、35藩に出兵を命じ、家老成瀬正肥、田宮如雲らの腹心を従えて広島へ赴任しました。
長州藩三家老を斬首することで事態を収拾しました。

慶応3年12月、越前の松平慶永とともに将軍慶喜の辞官納地問題に尽力、鳥羽・伏見戦後、大坂城を託された慶勝は帰藩して、佐幕派の一掃に務めました。
新政府から議定職に補されていた慶勝は、尾張近隣諸藩への勤王勧誘役をまかされました。

4月、甲斐・信濃の賊徒討伐を命じられた慶勝は自ら出陣して2州を鎮定しました。
さらに奥羽・北越へ派兵しました。
東征大総督有栖川宮熾仁親王の身辺警護を許されたのは尾張藩で編成された草莽磅礴隊です。
他に集義隊、正気隊、東正気隊、精鋭隊などの草莽隊が結成されました。
幕末維新史事典より


初代藩主から、勤王派だったのですね。
徳川御三家という肩書きがあるだけに不思議な感じです。
初代藩主・徳川義直は今と同じような“象徴天皇”と同じような感覚だったのでしょうか?
実際の政治は“徳川将軍”が行うことには異議はなかったと。
徳川の江戸幕府が始まった頃の事は詳しくないので、あくまでも私の勝手な想像です。

脈々と勤王の精神が受け継がれてきたのであれば、幕末に勤王派となったのも頷けます。
表面的には“徳川家一番”としていても、心の奥底、根底にはしっかりと勤王という思想が根を張っていますね。
御三家だから佐幕派と思う人の方が多いのではないでしょうか?
単純すぎたのは私だけ?

庭は綺麗に手入れされていて、のんびりと歩くにはいい場所でした。
本当に人がいない…。
桜の季節には多くの人が訪れたのでしょうね。
島田魁たちも名古屋城の桜を見たかもしれません。
桜を見ながら、自分達に訪れる春を願うことがあったかもしれません。


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徳川御三家
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