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加納町由来碑

2009年03月31日
加納町由来碑 (兵庫県神戸市中央区加納町6丁目)があります。
加納町由来碑
同郷の陸奥宗光と親交があり、モニュメントに刻まれている加納宗七字も宗七宛の陸奥の手紙が原典です。
戦前までは、今の新神戸駅の生田川畔に銅像が建てられていました。
戦時中の金属回収でいったん姿を消し、今は東遊園地のフラワーロード側に像があります。

加納宗七は、実業家。
宮本助七の次男。
紀伊国和歌山城下分銅町の出身。
紀州藩の御用商人として酒造業や廻船業を営む家業を手伝い、安政4年岸善兵衛の次女・梅乃との結婚にあたって独立し有本屋を興します。
紀州藩においては、伊達五郎(宗興)らの引き手を受けました。

慶応3年11月末京都に上り、伊達の弟・陸奥源二郎(陸奥宗光
※1)を訪ねたことがきっかけで、龍馬殺害を示唆したという噂のある、紀州藩の三浦休太郎襲撃計画に参画する事になりました。
実行役のひとりに選ばれ、数回にわたり協議を重ねました。
この企てにあたっての支度金各4両ずつの出処は、加納が国元から持参した100余両のなかからでした。

12月6日夜、三浦を一力亭の帰途に襲撃しましたが人違いで失敗しました。
続いて、翌7日三浦の宿舎である油小路花屋町下ル天満屋に斬り込みました。
この時加納は、西洞院御前通の角なる河亀に集結し、配布された白手拭を鉢巻にして目印として、天満屋の側面を持ち場として固めました。
正面からの斬り込み隊が突入し、三浦を警護中の新選組と乱闘が繰り広げられ、双方とも死傷者を出しました。

事件後、同志・竹中与三郎を神戸に頼り西之町に居住しました。
材木屋を営み繁盛し、廻船業、船宿の経営と事業を拡大。
明治4年に生田川流路変更の改修工事を請負い、続いて娘婿と共同で旧生田川の川底を埋め立て整備を行いました。
開発された土地には今も加納町の町名が残っています。

また同年5月の台風での船舶被害が大きかったことにより、翌年から約2年かけて港を建設し、入港料金を徴収して運営したといいます。
紀ノ川の改修工事、札幌での牧場経営、大阪上水道建設など数多くの事業を手がけました。
神戸の海岸通4丁目において病没。享年60歳。


※1 陸奥宗光(伊達小次郎、陸奥源二郎、陽之助)は、紀伊国和歌山城下の出身。
海援隊士。
文久3年10月に勝海舟の門下生となり、神戸海軍操練所で修行しました。
慶応元年5月、龍馬の亀山社中に加盟し、3年4月に改編された海援隊にも参加しました。
同年7月、「商方の愚案」と称する意見書を龍馬に提出しました。
9月には、丹後田辺藩や蘭商ハットマンとの商取引に尽力するなど、龍馬の片腕として働きました。

11月に龍馬が暗殺されると、その復讐を同志とともに企て、12月7日、黒幕とみなされた紀州藩の三浦休太郎を天満屋に襲撃しました。
翌4年1月には隊から離れ、新政府に出仕しました。
その後は明治10年の立志社事件に連座して獄中生活を経て、駐米公使、農商務大臣、外務大臣などを歴任しました。
外交問題に手腕をふるいました。
伯爵。享年54歳。
墓は神奈川県鎌倉市扇ヶ谷1丁目の寿福寺。
坂本龍馬大事典&神戸市中央区チラシより


JR東海道本線三ノ宮駅、阪急電鉄・阪神電鉄、ポートライナー、神戸市営地下鉄各三宮駅から、フラワー通を海の方向に歩いていきます。
神戸市役所の南側(海側)に東遊園地という公園があります。
駅前の交差点から約500m。
その一画に加納町由来碑が建っています。
この公園は今では、阪神大震災の追悼式典やルミナリエのメイン会場となっています。

加納宗七が天満屋事件の一人だとは…。
覚えていませんでした。
というより正直、覚えようとしていませんでした。
新選組、三浦休太郎、陸奥陽之助までは覚えていたのですが…。
新選組と死闘を繰り広げた人が、神戸の基礎の基礎を作ったのかと思うと、歴史の意外性を感じます。
新選組ファンとすればさらに複雑です。
が、今の私達の生活を考えると、維新後の加納宗七に感謝するしかないですね。

しかし神戸市中央区加納町の加納が、この人から来ているとは…。
神戸市民ではありませんが、近くに住む者としても知りませんでした。


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(2003/03)
岡崎 久彦

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