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流山陣屋・長岡屋跡

2009年03月21日
慶応4年4月2日、五兵衛新田(現:東京都足立区綾瀬)から流山に移動した新選組の首脳部が駐留した、流山陣屋・長岡屋跡(千葉県流山市流山2-108)です。
流山陣屋跡7

流山陣屋跡1  流山陣屋跡2

流山陣屋跡4

流山陣屋跡5  流山陣屋跡6
昭和38年の司馬遼太郎の『燃えよ剣』によって公にされた「長岡の酒屋」に由来しています。
近藤勇の近習 田村銀之助によれば、「此所(現:流山市立博物館所在地一帯)には田中の陣屋というのがありまして-(略)-」と大正9年に語っていますが、長岡屋は登場しません。
同じ大正9年の『流山町誌』では、近藤勇陣営は「今の町役場の西にあたる空地」となっています。

今日、陣屋跡として建てられている土蔵は、のちに移築してきた三河屋のものといわれています。
現在、この建物の前に「近藤勇陣屋跡」として流山観光協会の手で由来の石碑が建てられています。

流山の近藤勇陣営を「長岡屋」とした歴史は以下のとおりです。
流山では、昭和39年『ふるさと流山』(岩田耕作)、昭和41年『新撰組と流山』(伊藤晃)と相次いで出版されました。
この中で「根郷長岡家」「酒造家長岡屋」と明記され、今日の流山本陣跡として定着しています。
『流山の史跡をたずねて』(流山市教育委員会)では、「近藤勇が本陣としていた長岡屋は、当時流山の豪商でしたが、維新後倒産し、そのあとの志摩屋を経て現在の株式会社秋元となっています」と紹介しています。
しかし、流山市内の史料『穀物仲間再議定』によれば、長岡屋は、永岡三郎兵衛が元治元年から慶応4年2月まで醸造経営を行い、そのあとに嶋屋(志摩屋)治郎右衛門の手に渡り、明治17年に秋元の前身である秋藤(秋元藤太郎)の所有になったと考えられます。

新選組が入ってきた時期の経営は嶋屋にかわっていましたが、土地は旧来の永岡(長岡)で呼称されたものと考えられます。
流山を攻めてきた香川隊に属する岡田家の隊員富田重太郎の日記『官軍記』には、「味噌屋舗」と屋号は記されていません。また、芝崎村(流山市内)名主の『吉野家日記』にも「流山大家」とあり、新選組の駐屯地を特定できませんでした。

最近、下総国猿島郡境宿の小松原家文書により、新選組本陣を「鴻池儀兵衛」と伝聞する内容が発表されています。
鴻池は流山では屈指の醸造家で、天明・文化・天保から明治に至る穀物問屋でもありました。
長岡屋や志摩屋よりも上位にあり、「請人」(保証人)としても登場しています。
今日の近藤勇陣屋跡の西北70mに位置していました。
しかし、儀兵衛と特定できる人物はなく、喜兵衛であれば、味噌醤油醸造「紙屋喜兵衛」(陣屋跡西南70m)を指しています。

新選組首脳部30名が駐屯した家屋が「長岡屋」なのか、「鴻池」か「喜兵衛」か定かでありません。
五兵衛新田の金子家同様に、相応の規模をもった家屋を構えていたのは、どの家だったのか。
「秋元」の現駐車場(醸造蔵跡)が、その場所と推定できますが、『流山町誌』のいう「町役場の西にあたる空地」となれば、現在の土蔵の位置と認めてもよいだろう。

また『流山町誌』のいう町役場は、発刊の大正9年に根郷109から根郷131に移転しています。
ここは警察分署を改築したところで、常与寺の西方、鴻池の北隣となり、鴻池本陣説も浮上します。

4月2日の午後に味噌屋(長岡屋)に本陣を設け、分隊を光明院へ置いた新選組(当時は、幕府歩兵隊と称す)は、疲れを休める間もなく、3日朝方より野外訓練に出払っていました。
本陣には、近藤・土方ら数名でした。
新政府軍に包囲されてしまい、切腹を決意した近藤勇に、土方歳三は「ここで切腹するは犬死になり」と言い、あくまでも流山鎮撫が目的だと主張すべきだと説得しました。
近藤勇もそれに従って出頭しました。
新選組史跡事典&土方歳三写真集より


流山駅354
総武流山電鉄流山駅を出ます。流山駅前交差点を越えてもう一本西の交差点を南に曲がります。
ひとつめの交差点を西に入ったところに、“近藤勇陣屋跡”とかかれた石碑があります。

駅からすぐ近くです。
住宅街の中にあって、道幅が狭かったです。
車のすれ違いは無理だと思います。一台がやっと通れる程度でした。
もしかしたら一方通行の道でしょうか。
車に乗らないので、とっさにそういうところまでは思いつかなくて、チェックしていません。

私が訪れた頃は、上記の話は知りませんでした。
土蔵があとで移築された観光用だったとか…。
「うっそぉ~。」(死語ですね)ですよ。
幾つかの本を見ても、そのような記述はなく、近藤勇の陣屋跡として紹介されています。
なので陣屋跡に立ったときは嬉しかったです。
近藤勇や土方歳三が足を踏み入れた建物で、彼らが実際に踏んで触れたモノだと。
のち移築…、そういわれれば土蔵は、修理されたようですが、トタンが貼られていたような…。
古いのですが、どこか新しさを感じてしまう感も無きにしも非ずでした。

この移築説以外にも、陣屋跡の場所さえも確定していないようです。
本当ですか?って感じです。
ただ色々な説があるようですが、この場所から半径70mの範囲のようなので、風景的にはあまり変わらないでしょう。
またこの近辺に陣屋があったのならば、近藤勇や土方歳三は歩いているかも。
あっ、でも新政府軍に囲まれるような状況ならば、外を出歩くことはしなかったですよね。
こうなったら、同じ空気を吸っている!というところで喜ばないと…。

何だかガッカリというよりも、虚しくなってきました。
近藤勇が流山に滞在した事だけは間違いないですよね。
そこだけは今更嘘でしたなんていわないで欲しいです。
もう一度この場所を訪れて、陣屋跡の周辺を歩き回ってみたいです。


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新選組流山本陣跡の真説
はじめまして。新選組流山本陣論(屋号・所在地など)の結論は、「新選組流山顛末記」にて紹介しています。
「長岡屋」という屋号でなかったことが判明したので、平成18年3月の公式発表後は、「長岡屋跡」などでなく「新選組流山本陣跡」としています。
裏づけなども含め、発刊により広く発信した後に書かれた記事でしたので、余計なことながらご連絡させていただきました。
本陣跡の案内解説板も、平成15年10月リニューアル版から、先週に再リニューアルしています。
当時の建物は数ヶ所に現存し、大久保(勇)や内藤(歳三)らが足を踏み入れた可能性のある建物も残っています。
いろいろな場所に足を運ばれていることに敬服いたします。
甲州や江戸・関東の史跡も新たなものを多数特定していますが、ネット上での公表準備が整いませんので、直接お会いする機会がありましたらご案内します。
今後ともよろしくお願いします。

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