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福沢諭吉墓&アメリカ公使館跡-善福寺

2009年03月19日
福沢諭吉墓があり、最初のアメリカ公使館跡になる善福寺(東京都港区元麻布1丁目6-21)です。
ぜん福寺2  ぜん福寺3
福沢諭吉は中津藩士。
長崎で蘭学に接し、安政2年より大坂の緒方洪庵の適塾に入門、5年よりは藩江戸中屋敷で蘭学を教えました。
万延元年、軍艦奉行木村喜毅の従僕として遣米使節に加わり咸臨丸で渡米しました、帰国後は幕府の翻訳方をつとめ、文久2年には幕府使節として渡欧し、元治元年に幕臣となり、慶応2年に『西洋事情』を著しました。

明治31年9月26日に脳出血で倒れ、いったん回復しました。
明治33年8月8日に再び倒れ意識不明になりましたが、約1時間後に意識を回復しました。
明治34年1月25日に再び脳出血で倒れ、2月3日に再出血し死去。享年68歳。
葬儀の際、遺族は福澤の遺志を尊重し献花を丁寧に断りましが、盟友である大隈重信のものだけは黙って受け取ったといいます。

福澤は、大学の敷地内に居を構えていたため、慶應義塾大学三田キャンパスに彼の終焉の地を示した石碑が設置されています(旧居の基壇の一部が今も残る)。
戒名は「大観院独立自尊居士」で、麻布山善福寺に墓があります。
命日の2月3日は雪池忌と呼ばれ、塾長以下学生など多くの慶應義塾関係者が墓参しています。

昭和52年、最初の埋葬地(東京府下大崎村本願寺内 現:品川区上大崎1丁目常光寺内)から麻布善福寺へ改葬の際、遺体がミイラ(死蝋)化して残っているのが発見されました。
外気と遮断され比較的低温の地下水に浸され続けたために腐敗が進まず保存されたものと推定。
学術解剖や遺体保存の声もありましたが、遺族の強い希望でそのまま荼毘にふされました。

最初のアメリカ公使館跡
安政5年6月に締結された日米修好通商条約により、それまで下田にいた総領事ハリスを公使に昇格させ、翌年6年善福寺をアメリカ最初の公使宿館と決定、同年8月に初代公使ハリスが到着しました。
当時の宿館として、奥書院と客殿の一部が使用されていましたが、文久3年水戸浪士の放火で奥書院などを焼失したため、本堂、開山堂などを使用していました。

当時の本堂は戦災で焼失、現在のものは大阪府八尾市の東本願寺別院を移築した江戸初期の建築です。
幕末維新江戸東京史跡事典&Wikipediaなどより


営団地下鉄麻布十番駅から西へまっすぐに200m弱です。

大きなお寺でした。
商店街の中を歩いて行った記憶があります。
関西人の私としては、港区元麻布と商店街のイメージが一致しませんでした。
もっとガラス張りの服屋さんや雑貨屋さんが並んでいて、有閑マダムが何十万円もする服を着て歩いている場所かと思っていました。
こんな感じの場所なら、大阪周辺にもある!と安心しました。
小心者です(笑)

福沢諭吉のお墓にはお参りをしませんでした。
その時は気付いてなかったのかな…。
アメリカ公使館として訪れたのです。

福沢諭吉は大坂の藩邸で生まれ、江戸に出たり、中津に帰ったりと、あちらこちらで生活しています。
私は史跡巡りで東京に行っただけで、ここはどんな場所? 安全? 場違いではない?
とか心配になる事もあるのですが、あちらこちらで生活する福沢諭吉や当時の人はすぐに適応できたのでしょうか?
今は、テレビなどで各地の情報を知ることができるので、全くの未知の世界ではありません。
幕末や明治初期ってまだ通信も発達していないので、行ってみないとわからない場所ばかりですよね。

そういう意味では、ハリスは言葉も通じない日本に来て大変だったでしょう。
船で何日? 何ヶ月?もかけて来ることは命がけです。
海の上だけでなく、来てからもどうなるか判ったものではありません。
よほどの自信があったのでしょう。

最初のアメリカ公使館より、福沢諭吉墓所としての方が知れ渡っていそうです。
福沢諭吉もアメリカ公使館のここに通ったそうです。
という事は、福沢諭吉が歩いた場所です。
“逆さ銀杏”は福沢諭吉も見上げたかもしれません。
そう思いながら“逆さ銀杏”を見上げたら、福沢諭吉と多少なりともシンクロできるかもしれません。


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