大村益次郎像-靖国神社

2009年03月18日
靖国神社参道に大村益次郎像(東京都千代田区九段北2 靖国神社参道内)が建っています。
靖国神社1  靖国神社2大村益次郎像
明治15年11月15日、芝の紅葉館で開かれた大村益次郎の祭典の折、靖国神社宮司だった加茂水穂が大村の銅像の建立を提唱したそうです。
大村は蘭学や医学から兵学まで会得した維新期の鬼才で、兵部大輔として新政府に出仕中、明治2年に大坂で死去しました。

大村像の造立委員には長州閥の元勲らが名を連ね、有栖川宮や三条実美らの賛助を得て、計画は進行しました。
像は戊辰戦争で大村が活躍した上野山内への設置も予定されましたが、明治21年5月、内務、陸・海軍三大臣の特別許可を得て、幕末の討幕方殉難者や、戊辰戦争での新政府軍戦死者を祀る、靖国神社への設置が決定しました。

像の製作者は、新進の彫刻家大熊氏広に決まりました。
大村には写真も肖像画もなかったため、大熊は、大村と懇意だった高橋惟熙と画家のキヨソネが描いた肖像画を参考に大村の塑像を作成しました。
さらに大熊は欧州に渡り、造像の研修を続けました。

帰国後、明治23年3月大熊は大村の郷里に未亡人を訪ね、容貌についての取材を行いました。
また、大村の妹の富重が兄に似ていると教えてもらい、周防国吉敷郡秋穂村字二島に妹を訪ね、顔を写生しました。
像の体型については、同村字天田に住む大村の甥の藤村幹二郎の姿を参考にしました。
苦心の末に完成した、大熊による大村の全身の肖像は、造立委員はもとより、未亡人からも、真に迫り大いに満足との評価を得ました。
これにより大熊は8月より、石膏による像の原型作成に取り掛かりました。

明治24年5月、石膏像が完成しました。
次いで6月から小石川砲兵工廠で銅像の製作が開始されました。
大熊氏広は総監督を務め、技手の金子増燿が鋳造責任者を務めました。
10月に像は完成しました。
靖国神社への設置工事は本郷駒込肴町の石工商、酒井八右衛門が担当、石台として讃岐まさき島産の花崗岩を用いました。
地中を一丈ほど掘り込み、設置後はコンクリートで固め、基礎を堅牢にしました。
さらに像と石台の間には円柱形の鋳鉄台を据え、台には三条実美による賛を刻字しました。

像高10尺、鋳鉄台14尺、石台18尺。
総高12m余の大村益次郎の除幕式は、明治26年1月29日に予定されましたが、大雪で順延され、2月5日に盛大に行われました。
午後1時から式典が開催され、翌日の新聞『時事新報』には「靖国神社創立以来の盛況」と報道され、見物客も詰めかけました。

片手に双眼鏡を持つ大村像は、東北方角を眺める位置に設置されました。
また近年まで石台の周囲に、品川砲台にあった砲八門が据えられ、矢屏風型の鉄柵が周囲を囲んでいました。
像の正式名称は「兵部卿大村益次郎像」といいます。
靖国神社は、幕末に大村が開いた私塾鳩居堂の至近にあります。
幕末維新江戸東京史跡事典より


営団地下鉄半蔵門線、都営地下鉄新宿線九段下駅を北側に出て、西へ向かうと250mで行けます。

鳥居の向こうに小さく銅像が見えています。
しかし、近づいて行くと驚きます。
大きい!
石台もあまりに高いので、大村益次郎の顔は、はっきりと見えないほど上空にあります。
写真を撮るにしても、簡単なカメラではズームでも思うように撮れません。
どうしてこんなに高く作ったのでしょう?
不思議です。
手に持つ双眼鏡を使うためですか?
でも下から見てもらえない銅像って…。

そういえば大阪府大阪市法円坂(国立大阪病院横)にある、大村益次郎殉難之碑も驚くほど大きなものでした。
大村益次郎は大きいもの好きだったのですかね。
それとも大村を好きな人、敬愛している人達が大きいもの好きだったのですか。
西郷隆盛に負けたくなかったとか。
ん~どうなのでしょうね。

大村益次郎像を見に行く人にとっては、遠くからでも見えるので、見つけるのに苦労はしません。
それだけは有難いです。
靖国神社はそれなりの人がお参りに来られています。
幕末の史跡巡りの人はどれぐらいいてるのでしょうか。


麻100%シンプル折りたたみ日傘(1060) ブラック麻100%シンプル折りたたみ日傘(1060) ブラック
()
不明

商品詳細を見る


靖国神社
関連記事
Comment

管理者のみに表示