2008年04月14日 (月) | 編集 |
高倉永祜(たかくらながさち) 1838−1868

公卿。
高倉家三十四代、八一二石永胤の子。
安政2年家督を継ぎ、侍従に任官しました。
慶応2年従三位。
明治元年、北陸道鎮撫総督に任ぜられました。
北陸から越後へ回り、中山道を経て江戸浅草東本願寺に着陣しました。
ついで北陸道鎮撫総督兼会津征討総督の名で東北征討戦に参加、海路北海を回って、越後高田に付き、ここで奥羽征討越後口総督となりました。
高田を本拠地に、越後各地を点線し、高田で病没しました。
遺体が京都に着いたとき、正三位を贈られました。 幕末維新人名事典より
金戒光明寺の山門を東(左)に曲がり、石段を上ります。
あと少しで文殊塔という少し手前に南(右)に曲がる道があります。
そこを右に曲がると、すぐにまた東(左)に曲がる道−文殊塔の方向−があります。
文殊塔を左に見ながら、裏側が見えるあたりに高倉永祜のお墓があります。

公卿。
高倉家三十四代、八一二石永胤の子。
安政2年家督を継ぎ、侍従に任官しました。
慶応2年従三位。
明治元年、北陸道鎮撫総督に任ぜられました。
北陸から越後へ回り、中山道を経て江戸浅草東本願寺に着陣しました。
ついで北陸道鎮撫総督兼会津征討総督の名で東北征討戦に参加、海路北海を回って、越後高田に付き、ここで奥羽征討越後口総督となりました。
高田を本拠地に、越後各地を点線し、高田で病没しました。
遺体が京都に着いたとき、正三位を贈られました。 幕末維新人名事典より
金戒光明寺の山門を東(左)に曲がり、石段を上ります。
あと少しで文殊塔という少し手前に南(右)に曲がる道があります。
そこを右に曲がると、すぐにまた東(左)に曲がる道−文殊塔の方向−があります。
文殊塔を左に見ながら、裏側が見えるあたりに高倉永祜のお墓があります。
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