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桜田門

2009年03月15日
桜田門外の変がおこった、江戸城桜田門(東京都千代田区 皇居)です。
桜田門
桜田門は、江戸城の内堀に造られた門の一つで、桜田堀と凱旋堀の間にあります。
江戸城には内桜田門と外桜田門の2つが存在しますが、前者は桔梗門とも呼ばれ、単に「桜田門」という場合には後者を指すことが多いです。

安政7年にこの門の近くで水戸藩浪士による、大老井伊直弼の暗殺事件(桜田門外の変)が起きました。
井伊邸は現在憲政記念館の建っている辺り、桜田門から西に500メートルほどの所にありました。
桜田門の正面(豊後杵築藩松平家屋敷跡)には現在、警視庁の庁舎があります。

<桜田門外の変>
当日朝、襲撃者一行は決行前の宴を催し、一晩過ごした東海道品川宿の旅籠を出発し、東海道(現:国道15号)に沿って進み、大木戸を経て札ノ辻を曲がり、網坂(東京都港区、慶應義塾大学付近)、神明坂、中之橋(現在の首都高速道路都心環状線を過ぎる)を過ぎて桜田通りへ抜け、愛宕神社(港区)で待ち合わせたうえで、外桜田門へ向かいました。
そして、藩邸上屋敷(現在憲政記念館の地)から内堀通り沿いに登城途中の直弼を江戸城外桜田門外(現在の桜田門交差点)で襲撃しました。
井伊家には警告が届いていたが、直弼はあえて護衛を強化しなかった。

当日は季節外れの雪で視界は悪く、護衛の供侍たちは雨合羽を羽織り、刀の柄に袋をかけていたので、襲撃側には有利な状況でした。
江戸幕府が開かれて以来、江戸の市中で大名駕籠を襲うという発想そのものが想定外で、彦根藩側の油断を誘いました。
襲撃者たちは『武鑑』を手にして大名駕籠見物を装い、直弼の駕籠を待っていたのです。

駕籠が近づくと、まず前衛を任された森五六郎が駕籠訴を装って行列の供頭に近づき、取り押さえにきた日下部三郎右衛門をやにわに斬り捨てました。
こうして護衛の注意を前方に引きつけておいたうえで、黒沢忠三郎(関鉄之介の説あり)が合図のピストルを駕籠にめがけて発射し、本隊による駕籠への襲撃が開始されたのです。

発射された弾丸によって直弼は腰部から太腿にかけて銃創を負い、動けなくなりました。
襲撃に驚いた駕籠かきは遁走し、数名の供侍たちが駕籠を動かそうと試みたものの斬り付けられ、駕籠は雪の上に放置されました。
彦根藩士たちは柄袋が邪魔して咄嗟に抜刀できなかったため、鞘で抵抗したり、素手で刀を掴んで指を切り落とされるなど不利な形勢でしたが、二刀流の使い手として藩外にも知られていた河西忠左衛門だけは冷静に合羽を脱ぎ捨てて柄袋を外し、襷をかけて刀を抜き、駕籠脇を守って稲田重蔵を倒すなど襲撃者たちをてこずらせました。
しかし、一人では抵抗しきれず、遂に斬り伏せられました。
(河西の刃こぼれした刀は彦根城博物館に保存されています)

護衛のいなくなった駕籠に、次々に刀が突き立てられました。
さらに有村次左衛門が扉を開け放ち、虫の息となっていた直弼の髷を掴んで駕籠から引きずり出しました。
直弼は地面を這おうとしたが、有村が発した薬丸自顕流の「猿叫」とともに、首は鞠のように飛びました。
襲撃開始から直弼殺害まで、わずか数分の出来事だったといいます。

有村らは勝鬨をあげ、刀の切先に直弼の首級を突きたてて引き上げにかかったが、昏倒していた小河原秀之丞が鬨の声を聞いて蘇生し、主君の首を奪い返そうと有村に追いすがって後頭部に切りつけました。
小河原は広岡小之次郎らによって斬り倒されたが、有村も重傷を負って歩行困難となり、若年寄遠藤胤統邸の門前で自決しました。

襲撃を聞いた彦根藩邸からは直ちに人数が送られたが後の祭りで、やむなく死傷者や駕籠、さらには鮮血にまみれ多くの指や耳たぶが落ちた雪まで回収しました。
直弼の首は遠藤邸に置かれていましたが、所在をつきとめた彦根藩側が、闘死した藩士のうち年齢と体格が直弼に似た加田九郎太の首と偽ってもらい受け、藩邸で典医により胴体と縫い合わされました。

襲撃側のうち、最初に駕籠目掛けて斬り込んだ稲田重蔵は河西に斬り倒され即死。
有村次左衛門のほか広岡小之次郎、山口辰之介、鯉渕要人は彦根藩士たちの必死の反撃で重傷を負い、他の藩邸に自首したのち自刃しました。
他の者も多くは自首したり捕縛された後に殺害されたり、獄死しています。
増子金八と海後磋磯之介は潜伏して明治期まで生き延びました。

井伊家の側は直弼以外に8人が死亡(即死者4人、後に死亡した者4人)し、13人が負傷しました。
死亡者の家には跡目相続が認められましたが、直弼の護衛に失敗した生存者に対しては、2年後の文久2年に処分が下されました。
草刈鍬五郎など重傷者は減知のうえ、藩領だった下野の佐野に流され揚屋に幽閉。
軽傷者は全員切腹が命じられ、無疵の者は士分から駕篭かきにいたるまで全員が斬首、家名断絶。処分は本人のみならず親族に及び、江戸定府の家臣を国許が抑制することとなったのです。
Wikipediaより


営団地下鉄有楽町線桜田門駅を東側に出た目の前です。

私が桜田門を訪れたのは、午前7時頃でした。
写真もほぼ同時刻のものです。
冬の朝の澄み切った空気の中、人もほとんどおらず静かな皇居外苑を楽しみました。

この時は、東京に用事がありました。
今は廃止となってしまった、寝台急行銀河に乗って東京に午前6時42分に東京駅に着きました。
朝食を取るにも早すぎるので、友人と皇居探索に出かけたのです。
東京駅から、和田倉門に入り桜田門へ歩いたと思います。

さすがに桜田門は幕末好きでなくても知っていますからね。
桜田門外の変は歴史の教科書に出てきます。
この付近で井伊直弼が襲われたのですが、今は静かでそんな事があった気配もありません。
江戸幕府の一大転機がここで始まったわけです。
当時も天守閣は再建されていなかったというので、風景的には劇的な違いは少ないのではないでしょうか。

この場所に、即死者の遺体や、切り落とされた耳や指が落ちていたのです。
血の海だったのでしょう。
想像するとゾッとします。
きっと私の想像程度では、現実は追いついていないのでしょう。

井伊直弼が襲われたのは、本人の政策によるものです。
それぐらいの覚悟はしていたでしょう。
しかし、駕籠かきまでが無傷だったから斬首、というのは行き過ぎではないでしょうか。
家名断絶という親族にまで及んでいます。
当時の処罰などを現在聞いて、眉をひそめることは多々あります。
でもそれは時代時代の思想の違いだと思っていますが、この処分に関してだけは納得がいきません。
どうにか江戸時代だからと納得させるとしても、井伊直弼を護衛する武士が斬首の刑と言い渡されるまでです。
駕籠かきという、士分でないような人にまでというのは、どうしても納得できません。


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