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田村銀之助墓-智香寺

2009年03月15日
伊庭八郎の死を看取った田村銀之助の墓が、智香寺(東京都文京区大塚3丁目28-7)にあります。
田村銀之助墓
田村銀之助は、陸奥磐城平出身。
田村半右衛門の五男で、兄一郎、録四郎もともに新選組隊士です。

慶応3年秋、江戸で入隊した銀之助は13歳でした。
隊士とはいっても年少のため、実践参加は箱館に渡ってからでした。
『史談会速記録』には、新選組が流山へ転陣する前後のこと、会津から仙台へ落ちる逃避行、さらに箱館五稜郭開城前後の証言があります。

銀之助は、経緯はわかりませんが、彰義隊頭取の春日左衛門の養子であったため、五稜郭内で負傷して寝ている春日の世話をしており、開城となる直前、春日と傍で寝ていた伊庭八郎らの最期の光景を語り残しています。
総裁榎本付きであった彼は、謹慎が解けた後、一時、黒田清隆のもとにいました。
榎本から黒田に託されていたようで、のちに黒田の北海道開拓にも同行しています。
沢簡徳のもとで書生をしていて、殺人事件に巻き込まれて飛び出し、陸軍教導団に入りました。

西南戦争にも参加しましたが、長州閥の壁の厚さから陸軍に嫌気がさして、竹橋騒動の時、合流しようとしましたが果たせずに断念、陸軍を辞めました。
再び黒田に従って北海道開拓に同行したり、警察署に奉職して日比谷焼討ち事件に遭遇したり、波乱に富んだ後半生を送りました。
向こうっ気が強く、ケンカっ早いが、情に厚い人だったそうです。

娘のはる女は幼いうちから英語を銀之助から学びました。
女学校に入ってみると、学校で習う英語と父の英語が違いました。
父の英語は、箱館でフランス人・ブリュネーから教えてもらった、仏語のアルファベットだったようです。

大正13年8月20日、69歳で死去(65歳とするものもありました)
「田村家之墓」に合葬され、墓側面に名前があります。
幕末維新江戸東京史跡事典&新選組大事典より


営団地下鉄丸の内線新大塚駅を大塚5丁目交差点の方に出ます。
そのまま南へ歩くと、400mほど行くと消防署大塚出張所があります。
そこで東に曲がります。
約300mで大塚窪町公園が見えて来ますが、公園の東隣にお寺があります。

今回、お寺まではちゃんと行く事はできました。
智香寺と刻まれた石は道路に面して建っていますが、門は階段を登った上にあります。
しかしながら、お墓を見つける事が出来なかったのです。
時間があればゆっくりと探すことが出来たのですが、より多くの史跡を回ろうと、時間を短くしか取っていなかったのがミスでした。
もっと簡単に見つかるはずだったのですが…。

新選組初期からの隊士だったら、もう少し時間をどうにかしたのですが、慶応3年からの新選組隊士だったので(今考えても、すごい理由ですね)、お寺の場所が判ったからいいやとしました。
でも考えてみれば、伊庭八郎の最期を知っている人だったのですよね。
あ~これもミスった?!

田村銀之助は写真が残っていますが、少年の頃の写真ですよね?
童顔で、実は30代の頃の写真です。エッ。なんて云わないですよね。
整った顔立ちをしていると思うのです。
可愛いって感じでしょうかね。
気が強そうな雰囲気は特にないのですが、新選組に入ろうと思うくらいですから、気が弱いはずはないですね。


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Comment
No title
初めまして。いわき市に住んでいるものですが、田村銀之助に最近興味があり、この記事も参考になりました。銀之助は江戸生まれらしいですが、事業を始めてから何度か平(いわき市)に来ている様です。
遊撃隊(伊庭八郎抜き)も戊辰戦争時、いわきに来て加勢をしています。いわきは沖田総司の辞世の句の出所と言われていたりで、面白くなり私も幕末・新撰組のにわかファンになりました。

スポッツ
コメントありがとうございます。
いわき市にはまだ行った事がありません。
福島県の会津若松市には行ったのですが、関西から会津までは遠く、あまりあちらこちらと足を延ばせませんでした。いわき市にも是非行ってみたいです。
地図で見れば割と近い場所に茨城県水戸市もあるようですね。
水戸からいわき、宮古と北上して行くのも楽しそうですね。


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