吉田松陰終焉之地碑-十思公園内

2009年03月12日
吉田松陰終焉之地碑(東京都中央区日本橋小伝馬町5-1 十思公園内)が、小伝馬町牢屋敷跡前にあります。
十恩公園1

十恩公園2  十恩公園4

安政5年12月、吉田松陰は、長州藩の野山獄に拘留されました。
尊攘派志士の弾圧を推進する、老中間部詮勝の要撃を画策し、血盟者17名を統率したこtなどが理由でした。
翌6年4月、幕府は松陰の江戸護送を長州に下命、そして松陰は6月24日に到着しました。

松陰はいったん長州藩桜田上屋敷に拘留された後、7月9日に評定所で尋問を受けました。
そして、この日、伝馬町牢屋敷に身柄を移されました。
安政の大獄の渦中でした。
松陰と前後して、橋本左内、頼三樹三郎らが伝馬町に留置され、10月7日に獄舎内で斬刑に処せられています。

舎内では、松陰の人物を知る、福島藩士で牢名主の沼崎吉五郎の配慮により、新入監でしたが牢内の上座に置かれました。
松陰は「殊の外安楽世界」と、8月13日に萩の久坂玄瑞らに手紙で書いています。
また、高杉晋作は頻繁に伝馬町に通い、さまざまな便宜をはかりました。
7月12日、松陰は獄中から、蒲団や下帯、手拭い、半紙二帖と銭200文の差し入れを要望しています。これらは9月5日に許可を得て届けられました。

松陰は、獄中で沼崎らと諸書の輪読を行い、また別棟に収監されている知己らと頻繁に文通を行うなど、破格の行動力を示しました。
『留魂録』など、多くの著作も、この間に執筆しました。
下戸ながら、獄中で差し入れの酒に酔ったとの自記もあります。

松陰は9月5日と10月5日に伝馬町から評定所に出向き、尋問を受け、さらに同16日、評定所で供述書の読み聞かせを受けました。
ここで内容を巡って奉行らと論争し、紛糾して帰牢した松陰は、自分の死罪を確信したといいます。
10月27日の朝、松陰は評定所の出向き、死罪の申し渡しを受けました。
刑はその日のうちに、伝馬町牢屋敷東南隅にあった刑場で執行されています。
処刑時刻は、四つ時とも九つ時とも伝えられています。

松陰の遺体は、桂小五郎らの尽力により、2日後の27日に、小塚原回向院下屋敷の常行庵に埋葬されました。
その後、文久3年に高杉晋作らによって、武蔵国荏原郡若林村に改葬されています。

吉田松陰を慰霊する終焉之地碑と、留魂碑は、昭和14年6月に、伝馬町牢屋敷跡地にあった旧十思小学校校庭に設置されました。
前者は萩市有志者、後者は吉田松陰先生留魂録の碑建設会のてによるもので、その後、昭和23年に、隣接する十思公園内に移転して現在に至っています。
さらに東京都教育委員会により建てられた、吉田松陰先生略歴碑もあります。


十恩公園3
      石町時の鐘

江戸時代は鐘をついて人々に時刻を報せていました。
この鐘は、石町(現:日本橋室町4丁目付近)にあったものです。
宝永8年(徳川家宣の頃)に鋳直したもので、高さ1.7m、口径93㎝です。
十思公園に鐘楼を、設けて納めてあります。
幕末維新江戸東京史跡事典&中央区観光協会より


伝馬町牢屋敷跡の真向かいの公園です。

処刑場は向かいの史跡で、この辺りは牢屋敷だったのでしょう。
松陰が入っていた牢は、この碑の辺りですか?
そこまで考えては建てられてはいませんよね。

萩から尋問や投獄の為に江戸に送られるというは、本人はどう感じていたのでしょうか。
弁明の機会を与えられたと思ったのか、厳しい刑にために送られたと感じたのでしょうか。
なんとなく、飄々としていたイメージが浮かんできます。

牢名主って本当にいてたのですね!
時代劇の世界でのフィクションだと思っていました。
実際の牢名主も時代劇でみるような態度だったのでしょうか。
牢名主って、室長みたいな感じとは少し違いますよね。

福島藩士沼崎吉五郎が牢名主であったようですが、福島藩士という肩書きが効いたのでしょうか。
牢名主って、その人の肩書き or 犯罪の重大さ or 牢滞在期間 or 再犯数 or 気の強さ どれが重要なのでしょうか。
藩士という立場から、松陰にも優遇したのでしょう。
「安楽世界」なんて言葉が出ていますものね。

松陰は人を魅きつける何かを持っていたようですが、この牢内でも皆に敬われていたのでしょうか。


パン職人のなつみかんマーマレード(国産夏みかん使用) 155gパン職人のなつみかんマーマレード(国産夏みかん使用) 155g
()
不明

商品詳細を見る
関連記事
Comment

管理者のみに表示