伝馬町牢屋敷跡

2009年03月12日
伝馬町牢屋敷跡(東京都中央区日本橋小伝馬町3~5)です。
伝馬町牢屋敷1  伝馬町牢屋敷2

伝馬町牢屋敷3使用石
伝馬町牢屋敷に使われていた石

伝馬町牢屋敷は江戸町奉行の所轄下に、江戸初期、それまでの常盤橋の地から移設されました。
その総坪数は2,677坪で、うち獄舎の面積は、386坪に及びました。
そして武家から町人まで、多数の未決囚を収容しました。
また遠島刑を申し渡された者をその出帆日まで収監しました。

敷地西側に表門、東側に裏門を配し、周囲に土手を巡らした牢屋敷は、北側に囚獄が並び、中央に役所、南側に代々奉行を務めた石出帯刀の邸宅が併設されていました。
さらに南隅には処刑場を設置し、山田浅右衛門によって処刑が実施されました。
また所内では、奉行所での吟味のさいに自白をしない囚人に対して、拷問も実施しました。

牢内での生活は細部に渡って規定されました。
行水については、5月から8月までが月6回、3・4・9・10月が4回、11月から2月までが3回で、一部囚人を除き、7月と12月の2回、総員の月代が剃られました。
重病人に関しては、瀕死の者に限り、鍼医者以外の往診を認めました。
もし牢死者が出た場合は、裏門から搬出して、ただちに小塚原に埋葬しました。
不衛生な生活環境から、牢死者は特に幕末期に多く出、万延元年には、総収容者13万6,376名中、1,931名、慶応元年には同10万5,841名中、1,200名の死者が出たと伝えられています。

さらに牢内は自治のため、牢名主制度が自主的に採り入れられ、囚人らの起居にいたるまで細かく規制しました。

また安政の大獄に連座して、同5年から6年にかけて、橋本左内、頼三樹三郎、吉田松陰らがこの獄舎に収監され、所内の刑場で処刑されています。

牢屋敷は、存立期間中に何度か火災にあっていますが、幕末期の元治元年3月14日の大火で獄舎などが焼失した時は、一時、蛎殻町への移転も計画されました。

維新後も新政府によって獄舎の機能は維持されましたが、明治8年5月27日、市谷に完成した囚獄に移転され、その後、跡地は火除地となりました。
現在、跡地の旧処刑場の付近に真言宗寺院の大安楽寺が創建され、境内には井戸跡と石垣の一部が伝えられています。
幕末維新江戸東京史跡事典より


営団地下鉄日比谷線小伝馬町駅の北寄りで、駅を降りてすぐのところです。

伝馬町牢屋敷跡というより、伝馬町牢屋敷内処刑場跡とした方が正確なのかもしれません。
多くの人が殺された場所です。
当時は微細な犯罪でも処刑されたこともあったでしょうし、冤罪もあったと思います。
そんな人達の思いも残っていると思われるこの場所は、“すっきり”とした気分になる場所ではありませんでした。
が、決して嫌な感じがする場所でもありませんでした。

3枚目の写真の中央に、文字の書かれた板が見えます。
「伝馬町牢屋敷井戸跡 石垣の一部の石」というようなことが書かれています。
一瞬、念が篭っている?と、身構えましたが、
写真のように、植木鉢が置かれて趣味の園芸台のようになっていました。
思わず脱力しました。
これも後世の人が、ちゃんと供養されているからでしょうね。

橋本左内、頼三樹三郎、吉田松陰の血がここで流れました。
このアスファルトの下には、彼らの血が沁み込んでいるのです。
その上に立っているかもしれないと思うと、幕末がすぐそこにあるかのように感じます。


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