護国寺

2009年03月08日

護国寺(東京都文京区大塚5丁目40番1号)には、多くの墓碑があります。
護国寺1
徳川綱吉の母、桂昌院の発願によって天和元年に創建されました。

<幕末関係の墓>
岩神主一郎
土佐藩士。井原昴とも。
古沢家に生まれ、本家岩神氏を継いで主一郎を名乗り、さらに曽祖父の井原家を再興しました。
武市半平太に剣を学び、文久元年には弟の迂郎とともに土佐勤王党に加盟しました。
翌年、平井収二郎と京都に出て諸藩尊攘家と交流しますが、元治元年、藩の勤王党弾圧により投獄され、慶応3年11月まで獄中生活を送りました。
大正15年5月13日、87歳で死去。
「岩神・井原両家累代之墓」に合葬されました。


大隈重信
佐賀藩士。
文久3年の長州藩による攘夷断行に助力をはかり、また元治元年の長州征伐では、藩主鍋島直正に働きかけて幕府に中止させようとしましたが、果たせませんでした。
京都や長崎等で尊攘派として活動しました。
慶応3年3月には副島種臣と脱藩し、徳川慶喜に大政奉還を勧告しようとしましたが、藩役人によって佐賀に送還、1ヶ月の謹慎処分を受けました。
翌年3月には参与職となり、大正11年1月10日、85歳で死去。


清岡公張
土佐郷士。通称を半四郎。
藩命により三条実美の衛士となり、文久3年8月18日の政変で七卿に従って長州に赴きました。
翌年7月の禁門の変では上京して、堺町門に戦いますが、敗れて長州に落ち、実美らと太宰府に向かいました。
慶応3年の王政復古によって実美らが許されると入京し、翌年1月には東山道鎮撫総督府大監察に任じられています。
明治34年2月25日、61歳で死去。

三条実美
公家。
文久2年10月、攘夷決行の勅命伝達のため江戸に下り、長州藩と提携して討幕挙兵を画策しますが、翌年8月の政変により京都を追われました。
その後、太宰府にあって薩摩藩とも通じ、慶応元年5月には薩長同盟を推進する坂本龍馬と面談し、同3年12月に王政復古がなると帰京して議定となり、新政府の最高首脳にまで進み、復古賞典で永世5,000石を授けられました。
明治24年2月18日、55歳で死去。


田中光顕
土佐藩士。通称は顕助。浜田辰弥とも。
武市半平太に師事して土佐勤王党に加盟し、元治元年に脱藩。
中岡慎太郎の薩長同盟構想を知り、長州に同行して高杉晋作と交わりました。
慶応2年の長州再征戦では小倉口の戦いに参戦し、同3年には中岡の陸援隊に加わりました。
11月に中岡が坂本龍馬とともに殺害されると、12月には高野山義兵に参加、翌年の鳥羽・伏見の戦いでは錦旗を授けられました。
昭和14年3月28日、97歳で死去。

谷口四郎兵衛(共葬墓地)
桑名藩士。
元治元年の禁門の変、慶応4年の鳥羽・伏見の戦いに参戦し、戊辰戦争では桑名軍致人隊として北越で戦いました。
その後、会津より仙台に至り、森陳明らとともに
新選組へ加盟し、榎本武揚の旧幕海軍と蝦夷へ渡航しました。
明治2年の箱館戦争では、5月11日の戦いで左肩に被弾して病院送りとなり、降伏後は東京に送られ、翌年1月に謹慎を解かれました。
明治43年12月31日、71歳で死去。
「谷口家之墓」に合葬。

南部利剛
盛岡藩主。
慶応4年の戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に加盟し、7月には楢山佐渡の率いる秋田征討軍を起こし、9月には弘前藩と交戦しましたが敗退を重ね、9月24日に降伏開城しました。
11月に長男の利恭とともに東京に送られ、芝の金地院で謹慎、12月には朝敵の責めを負って隠居しました。
明治29年10月30日、71歳で死去。


南部利恭
盛岡藩主。南部利剛の長男。
戊辰戦争で、藩主の利剛が新政府軍の前に降伏したため、明治元年10月に利恭が名代となって奥羽鎮撫総督に謝罪の嘆願書を提出しました。
11月に父利剛とともに東京に送られ、芝の金地院で謹慎しました。
12月に家督を相続しましたが、石高20万石を13万石に減じられて、白石に転封とされましたが、新政府への70万両の献金を条件に盛岡への復帰が許されました。
明治36年10月19日、49歳で病死。

前田利同(共葬墓地)
富山藩主。
安政6年11月に家督を継ぎ、元治元年に水戸天狗党が飛騨を経て入京しようとしたとき、藩境に大砲を備えて警備しました。
慶応4年の戊辰戦争では、北陸道鎮撫総督兼会津征討総督に藩兵六小隊を派遣し、その功によって永世禄5,000石を与えられました。
大正10年12月23日、66歳で死去。
「伯爵前田家累世之墓」に合葬。


山県有朋
奇兵隊士。通称は狂介。
松下村塾入門後、高杉晋作の奇兵隊に参加し軍監となり、慶応2年の長州再征戦では小倉方面に出陣しました。
休戦後、藩命で京都に赴き、薩摩藩の西郷隆盛らと討幕をはかり、同4年の鳥羽・伏見の戦いを経て江戸に入り、北陸道先鋒総督府参議、会津征討越後口総督府参議として越後から会津に転戦しました。
戊辰軍功賞典で永世600石を与えられました。
大正11年2月1日、85歳で死去。

山田顕義
長州藩士。通称は市之允。
松下村塾で吉田松陰に師事し、文久2年に御楯隊の結成に参加、元治元年の禁門の変に参戦して敗走しました。
慶応2年の長州再征戦では芸州口で戦い、同3年に整武隊総督となり、大政奉還後は先鋒軍として上洛、戊辰戦争では青森口総督府海陸軍参謀をつとめ、北越や箱館を転戦しました。
箱館戦争の軍功賞典で永世600石を授けられました。
明治25年11月14日、49歳で死去。


幕末維新江戸東京史跡事典より



営団地下鉄有楽町線護国寺駅を上った所です。

仁王門を潜っただけで広いと判るようなお寺でした。
この時は、東京の新選組ファンの知り合いと、東京史跡巡りをしていました。
護国寺は時間の関係で、門前だけで帰ってきました。

新選組隊士のお墓があれば、探しに行ったと思います。
厳密には谷口四郎兵衛は新選組隊士といえるかもしれませんが、当時はその知識が無かったのです。
田中光顕と山県有朋の名前で前を通るリストに入れていました。
再度訪れる機会があれば、是非とも色々な方のお墓参りをしたいです。


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(2002/10)
工藤 寛正

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