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尾張藩伏見邸跡

2009年03月02日
尾張藩伏見邸跡(京都府京都市伏見区下板橋町)は、現在、伏見板橋小学校になっています。
伏見尾張藩邸跡
慶応3年12月21日、伏見にいた幕府歩兵や新選組が民家に押し入り、掠奪などをしているとの情報があり、同25日、朝議により、尾張藩士田宮如雲を伏見取締参与とし、伏見の尾張藩邸に出張させました。
そして、薩長土芸の4藩に対し、狼藉者取締りのための巡邏をするように命令が出ました。
土芸両藩は拝辞して兵を出しませんでした。


田宮如雲は、尾張名古屋藩の勤王家。
名は篤輝、通称は弥太郎。如雲は号で、のちに桂園とも。
父は同藩士大塚三右衛門。長じて大塚家を出て、田宮家を継ぎました。

文治の才に秀でており、藩主徳川慶勝に近習して早くからその才幹を認められて、監察参政に昇って藩政の中枢に参画、人材登用や倹約政策の励行を通して、慶勝の藩政改革を補佐することが少なくくありませんでした。
また藩内尊攘派金鉄組の長老格として名望が高く、嘉永年間以降、慶勝の内命を受けて各藩有志と交際し、内修外攘の策を語っていましたが、安政5年安政の大獄がおこり、慶勝が幕府より隠居・謹慎を命じられた時、それに連座して幽閉に処せられました。

文久2年赦されて復職、佐幕、尊攘の間で動揺する藩内の士気振興につとめる一方、元治元年慶勝が総督に任じた第一次長州征討の軍陣において帷幄の任にあたりました。
しかし、もともと長州藩と近しかった慶勝の意を受けて和議を推進しようとはかり、そのため幕譴が藩に及びそうになったことの責を負い、自ら進んで屏居、累の拡大を防ぎました。

慶応3年12月、王政復古の大号令により、議政官上局内に参与職が設置されると、その参与に登用され、京都ならびに伏見の民政にあずかることになりました。
翌4年正月、国許の尾張春日井郡上条村の庄屋林金兵衛を中心に農兵隊草薙隊が組織されましたが、その結成、訓練にあたったのも如雲でした。
草薙隊は結成の直後上洛して、京都警衛の一翼を担い、また藩の征東軍が編制され、それを率いる如雲が甲信方面の総督に任命されてからは終始行を共にし、少数(62名)ながら洋式銃隊として精鋭ぶりを発揮、如雲の戦勝に貢献しました。

如雲は凱旋後、藩の大参事に任じ、諸政改革に手腕を振るいましたが、老年のためまもなく致仕、明治4年4月19日、64歳で病没しました。
写真でみる維新の京都&幕末維新人名事典より


京阪電鉄、近畿日本鉄道丹波橋駅の南側の道を西に真っ直ぐです。
約400mで、北側に学校の門があります。
尾張藩邸跡の碑などはありません。

学校の広い土地が、藩邸だったのだろうなと想像させてくれます。
尾張名古屋といえば、御三家のひとつですから藩邸も広大だったのではないですか。
幕末期はあまり尾張・名古屋の名前を聞きませんね。

新選組が民家に押し入って、掠奪している?
そんな事がありえるのでしょうか。
悪い噂を流して、評判を落とす作戦ですか。
といってもこの頃は、新選組も統制が取れにくくなっていて、少し前では信じられないような悪事を働く人間もいたのかもしれません。
新選組の鉄の掟もあって無いようなものになっていたのでしょうね。

近藤勇、土方歳三、沖田総司、永倉新八、斉藤一、藤堂平助、井上源三郎、原田左之助、山南敬助らが命をかけてつくった新選組が風前の灯のようで寂しいです。


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