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土佐白川藩邸跡

2009年02月15日

土佐白川藩邸跡(京都府京都市左京区北白川追分町)付近です。
土佐百万遍屋敷跡2
    百万遍 知恩寺

土佐百万遍屋敷跡1
     百万遍交差点

幕末当時、土佐藩邸百万遍屋敷は、知恩寺・百萬遍念佛根本道場の東方に位置していました。

京都大学農学部・理工学部を含む北部構内の地は当時、土佐藩下屋敷として買い上げられたばかりで、建物は住吉陣屋より移築されました。

慶応2年正月の薩長連合の密約の後を受けて、同3年5月には薩土の討幕挙兵の約も成り、京にいた中岡慎太郎は白川の土佐藩邸を借り、自ら隊長となって諸藩の有志を集め陸援隊を組織しました。
田中光顕、毛利恭輔、香川敬三などが中岡のもと、薩摩の兵学者鈴木武五郎による洋式銃隊の調練などで日を送り、戦いに備えていました。
慶応3年10月10日、龍馬が白川藩邸を訪れた時、中岡は用意された銃器や高張提灯を示し、「何時にても蹶起すべし」と語っています。

坂本・中岡遭難の報は菊屋峯吉によってもたらされ、田中光顕が二本松薩摩藩邸へ行き、吉井幸輔と共に近江屋へかけつけたといいます。
坂本龍馬大事典&写真でみる維新の京都より


陸援隊屯所跡と同じ場所です。
陸援隊屯所が土佐藩邸の一部を借りていたので、そういうことです。
知恩寺の並びに、理学部・農学部があります。(土佐藩邸です)
その理学部・農学部から今出川通を挟んで南側に、工学部があります。
工学部が尾張徳川氏藩邸跡になります。

“知恩寺”と東山にある“知恩院”と名前が似ています。
私も最初間違えかけました。
知恩院の分院があるのかな?とか、地図の印刷ミス?とか思いました。
百万遍にちゃんと“知恩寺”がありました。

“寺”と“院”、この違いは?とフト思いました。
“寺”は、漢の時代に、高級官僚や外国からの来賓を宿泊させる建物のことを表していたのだそうです。
それが、やがて僧侶が住む建物のことをいうようになったそうです。
“院”は、もとは寺の敷地内の一部の別の建物の事をいいました。
こちらもやがて、寺に付随する建物のことのみをいう場合や、独自の建物のことをいう場合にも使われるようになったそうです。

これが今回の“知恩寺”と“知恩院”とに当てはまるかはわかりませんが…。


寺 院 違い

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