陸援隊屯所跡

2009年02月15日
京都大学農学部のある場所が、陸援隊屯所跡(京都府京都市左京区北白川 京都大学農学部辺)です。
陸援隊屯所
慶応2年正月の薩長連合の密約の後をうけて、同3年5月には薩土の討幕挙兵の密約も成りました。
当時京都に居た中岡慎太郎は白川の土佐藩邸を借り、在京の藩重役の支配下に自ら隊長となり、諸藩の有志を集めて陸援隊を組織しました。

田中顕助(光顕、副隊長)、岩村精一郎(道俊)、斎原治一郎(大江卓)、毛利恭輔、香川敬三など長屋に住んで、海援隊に呼応し、薩長とともに討幕の戦いに備えました。

中岡慎太郎は、土佐藩士。
幼名は福太郎、光次、名は為鎮のち道正、号は迂山。
石川清之助、大山彦太郎、樺山勘蔵などと変名しました。
土佐国安芸郡北川郷柏木村の郷士で大庄屋を勤める家に生まれ、のちの慎太郎も北川郷大庄屋見習いとなりました。

安政の初め、高知城下に遊学し、間崎哲馬に儒学を、武市瑞山に剣を学びました。
文久元年瑞山を首領とする勤王党に盟約に加わり、尊攘運動に身を投じました。
文久2年10月、郷士・庄屋・足軽などの軽輩の同志を糾合して「五十人組」を結成し、河野敏鎌、島村州平らと上京、河小一敏らの尊攘派を弾圧した豊後岡藩主中川久昭の問責などにあたりました。
その後、前藩主山内容堂守衛の藩命を受けて江戸に下り、同年12月、長州の久坂玄瑞らと水戸へ、さらに信州松代に佐久間象山を訪問し、文久3年1月、京都へ入りました。
同年2月、徒目付に任じられ、他藩応接役を命じられました。公武合体論の容堂の帰国で尊攘派が弾圧され、6月に間崎らの処刑となりましたが、八月十八日の政変を経て、9月に瑞山ら攘夷派が投獄され、中岡慎太郎にも逮捕命令が出されました。
このため脱藩して長州へ逃れ、周防三田尻の招賢閣に入って、久留米の真木和泉らとともに攘夷派浪士たちの指導者となりました。

元治元年1月、上京して長州藩邸に入り、高杉晋作、久坂玄瑞らと公武合体派の島津久光の暗殺を企てたりしました、また儒者中沼葵園の塾に入門して、中村半次郎など薩摩の尊攘派と交わりました。6月、長州藩尊攘派とともに洛西天龍寺の屯集、7月18日、来島又兵衛の遊撃隊に加わり、禁門の変で負傷しましたが、中沼塾の友人で日向佐土原藩周旋方の鳥居大炊左衛門の家に潜伏したのち、長州へと逃れました。
8月、四国連合艦隊の馬関攻撃があり、忠勇隊士として馬関へ向かいましたが、休戦となったため大坂へ戻り、また因州(鳥取県)方面の情勢を視察しました。
11月、忠勇隊長となり、12月、幕府の長州征伐について薩摩の西郷隆盛と小倉で協議し、さらに馬関で西郷と高杉の会見を実現させました。

慶応元年2月、馬関より大坂・京都へ至り、二本松の薩摩藩邸に入って、小松帯刀、吉井幸輔、伊地知正治、税所篤らと交わり、のち西下、5月、博多・馬関を経て上京したのち、土佐の土方久元、薩摩の岩下方平と大坂より薩摩藩の汽船小蝶丸で鹿児島へいき、西郷に上京の途次に長州への立寄りを説きましたが、西郷は約束を果たしませんでした。
中岡は坂本龍馬とともに京都で西郷に会い、重ねて薩長連合について説得、翌慶応2年1月、京都で西郷と長州の木戸孝允の会見となり、討幕の薩長同盟が実現しました。

同年6月、幕府の長州再征にさいし馬関で高杉・木戸とともに活動し、9月、西郷従道と上京して薩摩藩邸に入り、慶応3年3月、鹿児島で吉井・西郷と会談しました。
同年4月上京し、土佐の小笠原只八、乾(板垣)退助らと結び、5月、西郷・小松・吉井と乾・中岡の間で討幕の密約が交わされました。
同年7月、京都白川村の土佐藩邸内に土佐その他の浪士を集めて陸援隊を組織し、みずから隊長となり、討幕挙兵に備えました。
そして大政奉還を策する佐幕公武合体派に対抗して、武力討幕、王政復古のために画策しましたが、11月15日、河原町蛸薬師の近江屋で坂本とともに幕府見廻組の刺客に暗殺されました。

田中顕助(光顕)は、土佐藩家老深尾鼎の家臣。
父は深尾家の新小姓浜田充美。
土佐高岡郡佐川村に生まれ、幼名を顕助、または辰弥と称しました。
初め、佐川の郷校名教館に学びましたが、文久元年19歳で高知に出て、武市瑞山、麻田勘七に剣を学び、文久2年藩校文武館に入学しました。

尊皇論に傾きましたが、同年4月、叔父那須信吾らによる参政吉田東洋暗殺に影響されて、瑞山らの勤王党の盟約に加盟しました。
文久3年、藩命で上京しましたが、平井収二郎の宿舎に寄宿して、土佐の坂本龍馬、中岡慎太郎や長州の久坂玄瑞、桂小五郎らと交わり尊攘運動に奔走しました。
このため帰国を命じられ、蟄居・謹慎の処分を受けました。
平井・間崎らの処刑、瑞山以下の投獄などが相次いだので、元治元年8月、井原応輔、島浪間らと脱藩し、周防三田尻へ亡命、田中光顕と改名しました。
このため父充美は格禄を剥奪され、家屋敷も没収されました。

11月、井原、島、千屋金策、大利鼎吉らと大坂へ潜入しましたが、慶応元年1月、潜伏先を
新選組の谷万太郎らに襲われ大利が斬られたが、田中らは不在で難をのがれ、田中は大和十津川へ逃れました。
のち長州へ戻り、馬関を根拠に長州尊攘派と行動を共にし、慶応2年の第二次長州征伐では、長州藩の軍艦丙寅丸で周防大島の久賀港の幕艦を攻撃、また薩長連合の使者桂を丙寅丸で鹿児島へ送るなどしました。
翌慶応3年、上京し、陸援隊に加入して討幕挙兵の機会を待っていましたが、12月侍従鷲尾隆聚を首領とする高野山挙兵に加わりました。

維新後は政府に出仕し、会計検査官、西南戦争の征討軍会計部長などを勤め、さらに参事院議官、元老院議官、警視総監、宮中顧問官、宮内大臣などを歴任しました。

岩村精一郎(高俊)は、土佐藩の家老安東(のち伊賀と改姓)氏の陪臣。
土佐国幡多郡宿毛の生まれ。
幼名は精一郎。岩村通俊の弟。

初め日新館に学び、慶応3年23歳のとき上京して、白川村の土佐藩邸に入り、同所を根拠にする中岡慎太郎の陸援隊と行動を共にしました。
中岡は11月に暗殺されましたが、12月8日、隊士を中心にした百余名の武力討幕派に大江卓らと加わり、岩倉具視の内意を受けて、侍従鷲尾隆聚を擁して高野山で挙兵、紀州藩など幕府側の動きを牽制しました。

明治元年4月、東山道先鋒総督岩倉具定に従い江戸に入り、軍監として奥羽・北陸の戦闘を指揮しました。
維新後は宇都宮県権参事、神奈川県権参事を経て佐賀県令となり佐賀の乱を鎮圧、さらに愛媛、石川、愛知の県令と福岡、広島の県知事を歴任し、貴族院議員に勅選されました。

大江卓は、土佐の家老、宿毛の領主安東(のち伊賀)氏の陪臣。
土佐国幡多郡柏島の斉原氏の生まれ。
名は秀馬、治一郎、号は揚鶴、天也。のち大江と改姓。

慶応3年21歳のとき藩命を受けて、砲術修行のため長崎に遊学しましたが、ままおなく土居卓造と変名して京都校外白川村の土佐藩邸に潜入、中岡慎太郎の率いる陸援隊に加わりました。
12月8日、武力討幕を企てる岩倉具視の命を受け、紀州藩など幕軍の動向に先んじて、陸援隊士ら百余名と侍従鷲尾隆聚を擁して高野山で挙兵しました。

維新後は「えた・非人」廃止を建言、神奈川県令としてペルーのマリア・ルーズ号事件を摘発、西南戦争に呼応して林有造らと挙兵を計画し、投獄されました。
出獄後、代議士、東京株式取引所会頭などとなり、晩年は「帝国公道会」を設立し、被差別部落に対する融和事業にあたりました。

香川敬三は、水戸藩士。維新後伯爵。字は心豊、東洲と号しました。
鯉沼伊織、小林彦次郎とも名乗る。
香川孝定の第3子。

藤田東湖に学びました。
安政6年水戸藩下付の攘夷の密勅返上に反対して長岡に結集。
万延元年8月、蓮見東太郎と変名し林中左衛門ら同志36人とともに攘夷の先鋒たらんことを陳情し、文久2年末まで禁固でした。
翌年藩主慶篤に随行して上京、元治元年4月、一橋慶喜の警衛にあたりました。
慶応元年5月、江州膳所藩士と長州藩激派との提携に関係したことが露顕し、宿舎本圀寺を逃れ、非蔵人松尾但馬の手引きで蟄居中の岩倉具視と会い、大橋慎三とともにその手足となって活躍しました。
慶応3年8月王政復古要望の公卿22人の列参を組織するなど参画しました。

翌明治元年、東山道鎮撫総督府大軍監として総督岩倉具定を輔翼、中部、関東各地に転戦しました。
宇都宮に板倉勝静を捕え、
下総流山で近藤勇の斬罪を強硬に主張しました。
維新後、宮内省に入り、皇太后宮大夫にすすみ、明治20年子爵に叙せられ、明治41年伯爵にすすみました。

毛利恭助は、土佐藩士。荒次郎、吉盛。
土佐国高知城下本町出身。
馬廻格毛利源六郎の次男。

若い頃より剣術を好み、安政4、5年には江戸の北辰一刀流道場玄武館で修業し、龍馬とともに在籍者名簿に名を連ねます。
その後、帰国して監察方に出仕し、のちに山内容堂の近習目付としてその上洛に随従しました。
慶応3年5月21日の「薩土討幕密約」では中岡慎太郎・乾退助・谷干城と同席し、「薩土盟約」が結ばれました。
翌日の同年6月23日には、佐々木高行の招きで龍馬や中岡とともに料亭噲々堂で面談しています。
その席であろうか、龍馬の佩刀をねだったことが、2日後の龍馬の手紙に記されています。

近江屋事件では、藩邸から現場に駆けつけ、21日には谷とともに現場に遺留された刀の鞘を持って、伏見の薩摩藩邸に保護されていた御陵衛士の篠原泰之進らを訪
ね、鞘が新選組の原田左之助のものであるとの証言を得ています。
東征軍の出兵にさいしては留守居役として京都に残り、のちに出兵し、維新後は静岡県参事をつとめ、明治10年代に病没したとも伝わります。
写真でみる維新の京都&幕末維新人名事典&坂本龍馬大事典より


京阪電鉄出町柳駅から今出川通を東へまっすぐに1.1㎞いくと、京都大学農学部前に到着します。
京大生の人はどのルートで登校されるのでしょう。
1.1㎞歩くのは少し遠いですもから、何かもっと近い駅があるのかもしれません。
史跡巡り目的なら、ブラブラと歩くのはいいのですが…。

目的地が京都大学です。
私の中では、京大と阪大(大阪大学)といえば、もう想像もつかない頭の中身で、一生縁の無い場所だと思っています。
しかし、こうやって、陸援隊屯所という、私に直接関係ない事柄で訪れる事があるなんて…。

陸援隊に関係した、多くの人は“県令”“県知事”“議員”など政治の中枢を担う役を歴任しているようです。
そう思うと、ここはそういうトップレベルの人が多く引き寄せられる場所なのかも…なんて思ったりもします。
陸援隊も見廻組と同じで、あまりこれといって実績を残していないように思うのです。
ただ単に、私が知らないだけでしょうか?
どうしても坂本龍馬の名前が大きすぎて、中岡慎太郎が前面に出る機会が少ないからでしょうか。
「坂本龍馬と暗殺された」という、説明が大概ついていますしね。

この場所を、中岡慎太郎が歩いていたのです。
あの人懐っこい笑顔で歩いていたのでしょう。
坂本龍馬より中岡慎太郎の写真の方が、笑顔で可愛い? 人懐っこい?感じがします。
坂本龍馬と中岡慎太郎。
京大出身として活躍中の宇治原さんがいる、漫才師ロザンとどこか似ていませんか?
今、ふと浮かんだのですが、京大出身の宇治原さんが龍馬で、菅さんが慎太郎な感じがしました。
黄金のコンビです。

そんな龍馬と慎太郎も、二人だと軽口を叩いたりしながら歩いたのかもしれません。
それこそあの写真の様な笑顔で。


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