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上善寺

2009年02月05日
浄土宗知恩院派の上善寺(京都府北区鞍馬口通寺町東入ル)です。
上善寺1  上善寺3

上善寺2

門前に六地蔵廻り1番の大きな石柱が建っています。
地蔵尊は深泥池地蔵といい、深泥池から移されました。

墓地内には、禁門の変で鷹司邸付近で戦死した、入江九一・原道太・半田門吉・那須俊平・田村育蔵・小橋友之輔・緒方弥左衛門と無名の人1名の計8名の首塚があります。
当時堺町御門警衛隊長、越前の桑山重蔵が、主君松平春嶽の許しを得て、越前藩の菩提寺である当寺へ葬ったものです。


原道太は、久留米藩士。
諸職を経歴して総奉行付属となりました。
早くより勤王の志を抱き、幽居中の真木和泉に師事して尊攘活動に加わりました。
文久2年2月、国を脱し同志とともに長州を経て大坂に赴きました。
幽居を脱した真木和泉が来坂し、真木の指導のもと尊攘活動を行いましたが、藩命により捕えられ藩邸に幽閉され、のち国に護送されて禁固されました。
翌3年5月赦されて、三条実美の親衛兵となり上京しました。

八・一八政変により三条ら七卿が長州に落ちるに従って三田尻に移り、真木の内命を帯びて薩摩に派遣されましたが至らず長州に戻りました。
翌元治元年7月、禁門の変に真木に従って上京、7月19日、会津藩兵との戦いに負傷し、鷹司邸に退き自刃しました。享年27歳。

半田門吉は、久留米藩士、天誅組の一人。
久留米藩の軽輩でしたが、藩命によって武田二郎と名を変え度々時勢視察のため上京していました。
そのうちに文久3年8月、中山忠光ら天誅組の挙兵に参加、砲隊長となりました。
上田宗児とともに十津川を踏査し、中山らを導きました。
上野地の本陣で天誅組解散後も中山につきそい、鷲家口で負傷しましたが、大坂から三田尻に逃げのび、長州にしばらく潜伏しました。
翌元治元年7月の禁門の変に、真木和泉らとともに東上し鷹司邸で戦死しました。享年31歳。
『大和戦争日記』を記しています。

小橋友之輔は、讃岐高松の尊攘派。
父は香川郡円座村の医者小橋安蔵です。

入江九一については、2008年11月25日
那須俊平については、2008年8月1日を参考にしてください。
写真でみる維新の京都&幕末維新人名事典より


京都市営地下鉄烏丸線今出川駅から歩くのが近いでしょうか?
その場合は地下鉄を降りてから、烏丸通を北へ850m、烏丸鞍馬口交差点を東へ折れて400m歩きます。
バスに乗り、烏丸鞍馬口バス停か出雲路橋バス停で降りて数百m歩くかになると思います。

相国寺から北へ歩いて上善寺に行き、下鴨神社にまわると観光にもなります。
時間のある時に、ゆっくりと歩くのがいいでしょう。
北の方に上ってくると、電車という交通手段がほとんどないので、バスを上手く使うのがいいのでしょうね。
そのかわり自然も多くなり、京都の中心部と違った京都が楽しめます。

首塚には行けませんでした。
門の前に建つ、“贈正四位 入江九一他七名首塚”という碑だけチェックして来ました。
首塚-首が葬られているのですね。
そうか…、南に行けばすぐ京都御苑・京都御所ですから、運ぶとしてもそれほど遠い距離ではないので、ありえない話ではないですね。
当時の人にすれば、京都御苑北側まで直線で800mほどというのは、特段遠いという距離ではなさそうに思います。

無名の1人というのが気になります。
何故無名なのでしょう。
本当に末端の人、最前線で働く軽輩だったのか、身元もわからないほど無残な姿になっていたのでしょうか?
今ならDNA鑑定も出来ますし、身元調査が出来たのに。
この無名の方を知りたいです。


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