頼山陽寓居-山紫水明処

2009年01月15日
難波屋跡の南隣が、頼山陽寓居・山紫水明処(初め、京都府京都市中京区車屋通御池上ル西側、後<今回訪れた場所>京都府京都市上京区東三本木通丸太町上ル東側)です。
山紫水明跡1
      山紫水明処

山紫水明
  鴨川河原より山紫水明処

山紫水明跡2
遠景 手前方向より“山紫水明処”“難波屋跡”“吉田屋跡”と並んでいるのがわかります。

文化6年、山陽は備後神辺の菅茶山に招かれて、その塾の教授となり、文化8年同処を去り、大坂に遊びました。
続いて、京都に来て、新町丸太町上ル春日町の借家に塾を開き、子弟を教育しました。
ついで家塾は車屋町御池上ル町に、文政4年には木屋町二条下ル柴屋長次郎宅へ移り、文政11年の春には東三本木南町に移転し、水西荘と名づけられました。

山紫水明処は水西荘の一部で、四畳半位の1室と、2畳ほどの板の間のついた簡素な葛屋で、葭の天井、竹網代の壁、床違棚あり、欄干の下は加茂川に臨み、遥かに東山三十六峰に対しています。
庭園の池中には、山陽が硯の水を汲んだという井戸も残っています。
一般公開はされていません。

山陽はこの一室で、勤王のさきがけともいえる日本政記を著しました。
天保3年6月12日、山陽は吐血し、9月23日、「我将に仮寝しよう」といって、眠るように亡くなりました。
著書は他に、日本楽府、通議などがあります。
日本外史、日本政記も山陽存命中は、諸藩も幕府に憚って、読むことを禁じましたが、幕末の頃になり、志士の教典として盛んに読まれるようになりました。
幕末維新京都史跡事典より


難波屋跡から南へ20mちょっとの所にあります。
入口に石碑が建っているので分かりやすいです。

この並びにある、3史跡(吉田屋跡・難波屋跡・山紫水明処)を訪れた時、史跡巡りに限らず、観光客に会いませんでした。
近所の方と思われる人は、何人か歩いておられましたが、地図やカメラを持っている人はいませんでしたね。

幕末に関係している史跡巡りをしていて、頼山陽の史跡が多くあることに驚きました。
厳密には幕末ではないのかも知れませんが、幕末の志士と呼ばれる人達に影響を与えたことは確実なようです。

山紫水明とは、山は日に映えて紫色に見え、川の水は澄んで清らかであること。山や川の景色が美しいことをいいます。
今でも山も川も見える場所ですが、ビルも無く、車も走っていなかった江戸という時代は、まさに山紫水明だったのではないでしょうか。
風流ってこういう事をいうのでしょうか。
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