難波屋跡・幾松の置屋

2009年01月14日
吉田屋跡の南側に、難波屋跡・幾松の置屋(京都府京都市上京区東三本木通丸太町上ル)があります。
難波屋跡
路地の突き当たりにありました。

木戸孝允夫人松子は、小浜藩士木咲某の長女ですが、嘉永4年父を亡くし、母は松子と弟を連れて、御幸町松原下ルの提灯屋に再婚しました。
松子は東三本木の置屋・難波屋に貰われ、竹中かのの妹分となりました。
松子は14歳の時に舞妓となり、二代目幾松を襲名しました。

幾松は文久元年以降、桂小五郎と知り合い、献身的に桂の為に尽しました。
維新後幾松は木戸夫人となりました。
写真でみる維新の京都より


吉田屋跡から約30m南、ほぼお隣に近い場所が幾松の置屋である難波屋跡です。

この場所には、とても嬉しかった思い出があります。
難波屋跡の写真と地図を持って、この辺りを歩いていました。
「ここ見たい?」と、写真と風景を見比べていた時に、この路地の奥から人が出てこられました。
「どこか探してます?」という感じで声をかけられてしまいました。(その時はまさにこんな気持ちでした。)
私も史跡としても、自分の家をジロジロ見られるのは気持ちいいものではないと、自覚はしています。
難波屋跡の説明と写真が載っているモノを広げて、幕末が好きでこの写真を見て史跡を巡っている話をしました。
すると「そうなのですか」と。
二言三言おはなしした後、「この写真と同じアングルで1枚写真を撮らせて頂いてもよろしいでしょうか?」とお訊ねすると、「どうぞ」といって下さいました。
それが上の写真です。
「写真でみる維新の京都」に掲載されている“難波屋跡”と同じです。

本当にあの時は嬉しかったです。
ありがとうございました。

もしかしたら今なら、無理だったかもしれませんね。
世の中があまりに、無法化しているので、安易に写真も撮れませんものね。
個人情報などが分からないように、そして史跡として現状が分かるように…とっても難しい作業になりました。
碑が建っているならばまだしもですが…。

幾松は家を与えられている印象でした。
最初はやはり置屋で修行(?)だったのですよね。
そして“美人”なイメージがあります。
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