吉田屋跡

2009年01月13日
吉田屋跡(京都府京都市上京区東三本木通丸太町上ル)には、2説あります。
吉田屋1  吉田屋2
      玄関側より               鴨川河原より
         吉田屋跡の一つとされる料理旅館大和屋

吉田屋3
吉田屋跡ともいわれるY氏邸(手前)  鴨川河原からの写真 

吉田屋鴨側対岸から
   鴨川東岸よりの遠景
Y氏邸と大和屋が並んで建っているのが判ります。
左端がY氏邸、右隣2棟が大和屋さん。

吉田屋でのエピソードで有名なのは、禁門の変の後も洛中にかくれ、活動を続けた桂小五郎の話です。
土足で宴会の席に踏み込んだ新選組に怯むことなく、幾松は手ぶり鮮やかに
「春は花、いざ見にごんせ東山……」と舞い続けました。
宴席にいた桂小五郎や尊攘の志士たちは、隠し階段から地下道を抜け、すでに鴨河原へ逃れていました。
近藤勇も幾松の度胸に打たれて退散しました。
桂はその後、出石へ潜伏しています。

元治元年禁門の変で敗れた長州勢は、淀川沿いに大坂へ下っていきましたが、桂小五郎は最後迄京都に踏み止まり、清水寺畔の牢の谷(若宮八幡宮門前の南辺り。鎌倉時代初期に悪七兵衛景清幽閉の牢舎のあった所といいます)に潜み、物乞いに化けて三条大橋下を持ち場としました。
その頃、大橋の上から東に向かい、朝日を拝む真似をして、握飯を落としてくれる女がいました。
桂はそれを美味そうに食べていると「新参者のくせに、甘いことをする」と他の者が寄ってきました。
桂は握飯を別け与えたので、兄貴と奉られました。

握飯を毎日落としていた女性は、大黒屋今井似幽の家の下女お里で、主人のいいつけで落としていました。
やがて桂の物乞い姿も世間に知れてきたので、しばらく牢の谷に潜み、そして時々は祗園末吉町の松尾や、祗園石段下の竹の屋などの茶屋へ入り込み、町人姿に姿を変えて、東三本木の吉田屋へ出かけました。

東三本木通が南北に通る一帯は、上之町・中之町・南町とあり、俗に三本木(新三本木)と称し、宝永5年の大火の後、京都御所が拡張されるにあたって、東洞院通下立売上ルあたりにあった三本木1丁目-3丁目にあった民家を、鴨川西岸の現在地に移してできた町です。
三本木は古く寛政の頃から遊所として名高く、町芸者が酒席に出てサービスしていました。
明治3年から5年までは、公認の遊里となりました。

吉田屋もこの三本木の青楼の一つで、料亭として、勤王の志士の密会の場所によく利用されていました。

①山紫水明処(頼山陽 後日記載予定)より少し北の、Y氏宅がその跡といわれています。
②またそれより北の、現在料理旅館大和屋がその跡ともいわれています。
写真でみる維新の京都&幕末維新京都史跡事典より

京阪電鉄神宮丸太町駅を降りて、丸太町橋を渡ります。
一つ目の路地を北に入って150m程の場所にあります。
旅館大和屋の前に、説明の書かれた物が建っていました。

知る人ぞ知るお宿でしょうか?
本当に細い路地に入った場所にあります。

ここは新選組が踏み込んだ場所です!
この道を新選組が通ったのです。
近藤勇は確実に来ています。
今はアスファルト敷きになっているので、同じ物を踏みしめてはいないのですよね。
同じ土を踏みしめてみたいです。
建物が残っていたとしても、畳は張り替えられていて、同じものではないですものね。
残念です。

吉田屋はどちらにあったのでしょう?
両方に少しずつかかっていた物を壊して、大和屋とY氏邸が建ったとか…。
こんなに数mの距離なら、ハッキリしないことは残念ですが、あまり悔しく思わないですね。
桂を追って、隣の家の敷地を走った可能性もあります。
この辺り一帯に、新選組の足跡があったはずです。
踏みしめて、踏みしめて、新選組を堪能しました。
関連記事
Comment
鴨川からの写真が色々想像できて嬉しかったです!長州も新選組も好きな私にとっては2度美味しいところです。
今年も読ませていただいてます。記事有難うございました。
2009年 おめでとうございます。
昨年はありがとうございました。
今年も出来る限り、書いていこうと思っています。
今年の目標は、「まだ訪れていない史跡を巡る事」ですが、実行出来るかは分かりませんがe-443 予定は未定ということでe-454
今年もよろしくお付き合い下さい。お願い致しますe-466

管理者のみに表示