大村益次郎寓居・遭難之地

2009年01月12日
さらに北進すると、大村益次郎寓居・遭難之地(京都府京都市中京区木屋町通押小路下ル)が見えてきます。
大村益次郎寓居跡1
大村益次郎(村田蔵六)は、蘭学者で医者・兵学者でもありました。
鳥羽伏見の戦いの後、江戸に出て軍制改革に尽し、親兵を編成し、彰義隊を掃討して、奥羽・北越・箱館の平定に功ありと永世禄1500石を賜り、兵部大輔となりました。

大村は従来の武士から成る軍隊を廃して、百姓・町人からの徴兵を提案し、武士の帯刀廃止を主張した為、士族の反感を買いました。

明治2年、関西の軍事施設巡視に来た大村は、9月4日夜、この場所の宿で浪士に襲われ負傷し、大坂で治療しましたが、11月5日夜に死去しました。
現在霊山墓地にある墓は、深草陸軍墓地にあったそうです。
写真でみる維新の京都より


桂小五郎・幾松寓居跡の北側にあたります。
桂小五郎・幾松寓居跡の真横辺りが、実際佐久間象山が死亡した場所のようで、その数m北側に大村益次郎寓居・遭難地跡があります。
あの立派な、大村益次郎・佐久間象山遭難之地碑より、両人とも北側で死亡・襲撃されているようです。

本当にこの辺りまでくると、地元の方以外の人をほとんどみかけません。
当時の方が賑やかなのかもしれませんね。
ちょうど、御池通からこの辺りまでの西側(高瀬川に沿って)は、長州藩邸があったので、藩士の出入りや警備で人の姿もよく見られたのではないでしょうか。

大村益次郎はここで襲われて、大坂で治療しています。
亡くなるような大怪我なのに、大坂まで運ばれたのですね。
動かさない方がよかったのでは?
今と違って、それほど交通手段も発達していませんから、船で川を下ったとしても体に負担がかかりそうです。
その後の陸路は、大八車…?ってっことはないと思いますが、横になって運べる手段がほとんどなさそうに思います。

いくら武士の意地とか、男のプライドとか、現在とは心持が違うといっても、人間の体の部分は同じですから、辛かったのではないでしょうか?
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