近藤勇狙撃の地
2008年12月23日
近藤勇狙撃の地(京都府京都市伏見区丹波橋筋付近 伏見街道)はこの辺りです。
慶応3年12月18日、近藤勇が布陣していた旧伏見奉行所から二条城へ、馬で出向いた帰途に、御陵衛士の残党の待ち伏せに遭い、馬上右肩を狙撃され、負傷しました。
これは、新選組から分離した御陵衛士伊東甲子太郎、藤堂平助、毛内有之助、服部武雄の4名が、同年11月18日の夜、新選組によって殺害されたことへの復讐でした。
伊東を失った同志達は、薩摩藩に保護され、近藤を討つ機会を窺っていました。
この狙撃の現場は、西村兼文の『新撰組始末記』によると、近藤が、京からの帰り道を伏見街道にとったことを知った元御陵衛士は、伏見・藤森神社の南北二手に分かれて、近藤が通るのを待ち、藤森神社の北になる墨染の民家に潜んでいた阿部十郎が、近藤を狙撃したとしています。
またこの時、近藤の護衛として従っていた島田魁は、狙撃された場所は、墨染辺と日記に記しています。
狙撃された近藤は、落馬の難を逃れ、馬を奉行所へと駆けさせて命が助かりました。
奉行所にいた永倉新八は、『浪士文久報国記事』のなかで、この事件の場所を墨染としています。
しかし、永倉は、護衛のうち討死した者を、石井清之進と下僕の文吉と記しています。
また、近藤を狙撃した阿部十郎(のち、隆明)は、伏見尾張藩邸(現:伏見区下板橋町)の横になる街道が曲がる場所に来て、近藤を待ち伏せたと語っています。
ここは、墨染よりさらに南の丹波橋筋付近と思われます。
阿部十郎は、近藤を狙撃したのは、富山弥兵衛としています。
狙撃地については、墨染の南方に位置する丹波橋辺と地名をあげています。
また「本街道墨染ヨリ三四町手前」としています。
一町を約109mとすると、墨染より400mほど南下した、国道24号線丹波橋通付近と思われます。
近藤は、伏見奉行所に帰り着きましたが、右肩は銃弾が貫通する重傷で、この時、大坂にいた松本良順の治療を受けるために。同月20日、労咳の沖田総司とともに、大坂へと下りました。
新選組史跡事典より
京阪電鉄&近鉄(近畿日本鉄道)電車丹波橋駅を降りて、駅の北にある丹波橋通を東へ向かいます。
教育大学附属桃山中学校の東側に国道24号が走っています。
写真はそこにかかる、歩道橋から撮りました。
新選組及び幕末研究家の先生に教えて頂いた場所なので、ほぼこの位置ではないかと思います。
昔と土地が微妙に変わっていたら、ピンポイントでは正確ではないかもしれません。
この付近で近藤勇が狙撃されたのです。
刀での襲撃ではなく、銃で狙われたのなら防ぎようがないですね。
当時、防弾チョッキがあったとも思えません。
この辺りに血が滴り落ちたのでしょうか。
今はもちろんアスファルトが敷かれ、血痕はありません。
土のまま残っていても、血痕は残っているはずはありませんが、その土に触れたくなるかもしれません。
近藤勇も必死に馬にしがみついていたのだと思います。
いくら近藤勇でも、右肩貫通の銃創を負っていたら、精神力だけではどうすることもできなかったのではないでしょうか?
ある意味、奉行所まで帰りつけて、幸運だったのではないでしょうか。
考えただけでも痛いです。
銃で撃たれるという痛みは想像も出来ませんが、貫通したのなら穴が開いている状態?
今、再放送している“龍の珠”でもよく、腹に穴が開きますが、そんな感じですか?
痛い………。
右肩でよかったです。
胸とか頭だったら、新選組の歴史も変わってしまっていたでしょう。
沖田総司も大坂に送られるほどに体調が悪くなって、新選組もいよいよ終焉に向かって走りだしています。
このころ以降の話を聞くと、私は寂しくなってしまいます。
やはり壬生狼と呼ばれる頃の新選組の話が一番安心できます。
慶応3年12月18日、近藤勇が布陣していた旧伏見奉行所から二条城へ、馬で出向いた帰途に、御陵衛士の残党の待ち伏せに遭い、馬上右肩を狙撃され、負傷しました。
これは、新選組から分離した御陵衛士伊東甲子太郎、藤堂平助、毛内有之助、服部武雄の4名が、同年11月18日の夜、新選組によって殺害されたことへの復讐でした。
伊東を失った同志達は、薩摩藩に保護され、近藤を討つ機会を窺っていました。
この狙撃の現場は、西村兼文の『新撰組始末記』によると、近藤が、京からの帰り道を伏見街道にとったことを知った元御陵衛士は、伏見・藤森神社の南北二手に分かれて、近藤が通るのを待ち、藤森神社の北になる墨染の民家に潜んでいた阿部十郎が、近藤を狙撃したとしています。
またこの時、近藤の護衛として従っていた島田魁は、狙撃された場所は、墨染辺と日記に記しています。
狙撃された近藤は、落馬の難を逃れ、馬を奉行所へと駆けさせて命が助かりました。
奉行所にいた永倉新八は、『浪士文久報国記事』のなかで、この事件の場所を墨染としています。
しかし、永倉は、護衛のうち討死した者を、石井清之進と下僕の文吉と記しています。
また、近藤を狙撃した阿部十郎(のち、隆明)は、伏見尾張藩邸(現:伏見区下板橋町)の横になる街道が曲がる場所に来て、近藤を待ち伏せたと語っています。
ここは、墨染よりさらに南の丹波橋筋付近と思われます。
阿部十郎は、近藤を狙撃したのは、富山弥兵衛としています。
狙撃地については、墨染の南方に位置する丹波橋辺と地名をあげています。
また「本街道墨染ヨリ三四町手前」としています。
一町を約109mとすると、墨染より400mほど南下した、国道24号線丹波橋通付近と思われます。
近藤は、伏見奉行所に帰り着きましたが、右肩は銃弾が貫通する重傷で、この時、大坂にいた松本良順の治療を受けるために。同月20日、労咳の沖田総司とともに、大坂へと下りました。
新選組史跡事典より
京阪電鉄&近鉄(近畿日本鉄道)電車丹波橋駅を降りて、駅の北にある丹波橋通を東へ向かいます。
教育大学附属桃山中学校の東側に国道24号が走っています。
写真はそこにかかる、歩道橋から撮りました。
新選組及び幕末研究家の先生に教えて頂いた場所なので、ほぼこの位置ではないかと思います。
昔と土地が微妙に変わっていたら、ピンポイントでは正確ではないかもしれません。
この付近で近藤勇が狙撃されたのです。
刀での襲撃ではなく、銃で狙われたのなら防ぎようがないですね。
当時、防弾チョッキがあったとも思えません。
この辺りに血が滴り落ちたのでしょうか。
今はもちろんアスファルトが敷かれ、血痕はありません。
土のまま残っていても、血痕は残っているはずはありませんが、その土に触れたくなるかもしれません。
近藤勇も必死に馬にしがみついていたのだと思います。
いくら近藤勇でも、右肩貫通の銃創を負っていたら、精神力だけではどうすることもできなかったのではないでしょうか?
ある意味、奉行所まで帰りつけて、幸運だったのではないでしょうか。
考えただけでも痛いです。
銃で撃たれるという痛みは想像も出来ませんが、貫通したのなら穴が開いている状態?
今、再放送している“龍の珠”でもよく、腹に穴が開きますが、そんな感じですか?
痛い………。
右肩でよかったです。
胸とか頭だったら、新選組の歴史も変わってしまっていたでしょう。
沖田総司も大坂に送られるほどに体調が悪くなって、新選組もいよいよ終焉に向かって走りだしています。
このころ以降の話を聞くと、私は寂しくなってしまいます。
やはり壬生狼と呼ばれる頃の新選組の話が一番安心できます。
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