成就院

2008年12月27日
清水寺一山九院の本坊・成就院(京都府京都市東山区清水、清水寺山内)は、本堂の手前、北方にあります。
成就院
先師蔵海の後を嗣いで、成就院の住職となった忍向(月照)は、勤王の志厚く、近衛家に出入りし、尊攘の志士と交わったため、幕府に睨まれ薩摩に下りました。
忍向の弟も蔵海の弟子となり、僧信海となり、兄の去った後寺務を預かった近藤正慎の亡き後、成就院の住職を嗣ぎました。

清水寺へ向かう途中、左の道を行くと、月照・信海の碑があり、坂を下ると成就院です。

忍向(月照)は、京都清水寺成就院住職で、正式僧名は忍向です。
大坂の町医玉井宗江の長男で、俗名宗之のち久丸です。
文政10年4月14歳で、縁戚にあたる成就院蔵海の弟子となり、翌年得度して中将坊忍鎧また忍介と称し、天保6年5月、23歳で同院住職を継ぎました。

和歌の道を通じて、近衛忠熙に認められ、有馬新七、西郷吉之助、鵜飼吉左衛門ら諸藩の志士と交際し、尊攘運動に没頭しました。
安政元年2月、同じく清水寺で修行した実弟信海に寺務を任せて国事に奔走し、同月近藤忠熙と謀って、高野山で外夷退散の祈願を行ったあと、とくに水戸藩への勅諚降下につき、鵜飼吉左衛門父子や頼三樹三郎、梅田雲浜らと公卿入説に努めました。

大獄により、鵜飼父子、頼、梅田も逮捕され、身に危険が迫ってきたので、近衛の勧告に従って9月11日、僕大槻重助を伴い京を脱出し、西郷吉之助、有村俊斎の両薩摩藩士に守られて、海路大坂から下関へ逃れ、豪商白石正一郎宅に身を寄せました。

ついで福岡で薩摩脱藩士北条右門の隠れ家に潜み、西郷、有村が先に帰国したあと、山伏に姿を変えた平野国臣に連れられて、南部一条院門跡使僧静渓院鑁水の変名で苦しい旅を続け、11月10日やっと鹿児島に入りました。

同月15日夜、西郷が宿を訪れて忍向と平野、重助を連れ出し、酒肴を設けた舟を船頭3人に操らせて月明の薩摩湾へ漕ぎ出しました。
酒宴が開かれたあと、未明近く、突然西郷と忍向が海へ飛び込み、間もなく引き揚げられましたが、忍向はすでに水死していました。享年46歳。
西郷は蘇生しました。

せっかく薩摩入りしたものの、藩首脳の空気は冷たく、忍向の日向への追放を宣せられた西郷が前途を悲観して、これを忍向に伝え、ともに死を決したらしいです。
忍向の遺体は鹿児島の禅宗南林寺に葬られ、別に清水寺子安塔付近に、大獄に座して江戸で獄死した弟信海と並んで墓があり、また清水寺境内北側には明治8年、月照十七回忌に西郷の詠んだ詩の碑と忍向兄弟の辞世碑が建てられました。
贈正四位。
写真でみる維新の京都&幕末維新人名事典より


清水寺の仁王門を潜り、本堂には向かわずに、観光客のいない左(北)にそれていきます。
池の横を通り抜けると、成就院(本坊)があります。
清水寺本堂とは違い、人の気配は在りませんでした。

おそらく幕末当時も静かな穏やかな場所だったのではないでしょうか?
住職の忍向の心の中は穏やかではなかったでしょうが。

忍向というより、月照という通称の方が有名ではないでしょうか?
月照が西郷吉之助と入水自殺したという話は、私も心の隅に残っていました。
西郷吉之助は助かったからこそ、維新の大業を成し得ましたね。
もし月照と一緒に亡くなっていたら、幕末維新は違った方に変わっていたかもしれません。
勝海舟との無血江戸開城もなかったかも…
歴史に「If」は禁物ですが、やはり考えてしまいますよね。

信海は、青蓮院宮の為に修法した攘夷祈願の護摩の件で、幕府側に捕えられ、江戸伝馬町の獄中で死にました。
安政6年3月18日、享年39歳。
両上人の墓は、清水寺山内、子安塔の西方墓地にあります。

また、忠僕大槻重助は、忍向の遺体を葬り、役人に連れられて京へ帰り、放免の後、茶屋を開いて主人の墓を守り暮らしていました。
「忠僕茶屋」と呼ばれ、「舌切茶屋」の西側にあります。
(三重塔修復工事により仮営業などで場所移動ありの可能性大)
忠僕大槻重助の墓は、忍向・信海の墓を守るように、両師の墓の東方、自然石の墓の下に眠っています。
写真でみる維新の京都より



西郷吉之助 月照
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