六角獄舎跡

2008年12月19日
六角獄舎跡(京都府京都市中京区六角通大宮西入ル 因幡町)に行きました。
六角獄舎跡1  六角獄舎跡2

六角獄舎跡3  六角獄舎跡2
向かって左の碑に刻まれているのは、右の写真です。

六角牢は東西69m、南北53m、面積3,660㎡で、現在の六角通の南側、神泉苑通から財団法人盟親のあたりにありました。
中は揚り屋、本牢、切支丹牢などに分かれていましたが、文久以来の国事犯の収容で牢内は一杯になっていたといいます。

元治元年7月19日、長州勢が京都に攻め込んできたことにより火災が発生し、市街から西へと広がりました。
20日には火の勢いは六角獄に迫り、西町奉行所滝川播磨守の判断により、収監の囚人の破獄を恐れ、急遽、平野国臣、古高俊太郎らの処刑命令が下されました。
まず生野挙兵の関係者から引き出され、切支丹牢の東側で3時間にわたり斬刑が続きました。

平野の太刀取りは東町奉行組同心、太田直次郎であったといいます。
この時新選組も六角獄内で処刑に加担したとの説もあります。

この時に処刑された33名の遺骸は藁筵に巻いて、西二条刑場の椋の木の下に埋められましたが、明治10年に刑場跡が塵芥場となるとき発掘され、のち竹林寺(2008年10月7日 竹林寺 参照して下さい)へ合葬されました。

六角獄舎は被災することなく、滝川播磨守はのちに、守護職松平容保の叱責をうけたといいます。

六角獄舎は正式名称は、三条新地牢屋敷といいます。
境域には、宝暦4年、男の刑死人を解剖し医学の研究をし、同年9月に「臓志」を刊行した、山脇東洋の観臓記念碑も建っています。
新選組史跡事典&写真でみる維新の京都より


阪急電鉄大宮駅を降り、斜めに走る後院通を進みます。
600mほどの所にある、朱雀第一小学校の手前の六角通に入ります。
200mほど歩くと、碑が建ち並ぶ場所が見えて来ます。

六角牢跡として訪れたので、この場所に着いた時驚きました。
なぜなら、私が訪れた当時、マンションに囲まれるようにこの碑があったのです。
牢獄の跡地にマンションです!
刑死した人や、牢中で病死した人、獄門死した人も多いでしょう。
そこに現在人が生活している…。不思議な光景でした。

もちろん、丁寧に供養しているでしょうが、それでも私はなかなか勇気がでないかも…。
壬生寺内の老人ホームや、壬生周辺などには、住みたいと思っていました(います)が、さすがにここは…。
古高俊太郎や平野国臣など、多くの人に会えるかもしれませんね。

この場所に住まれている方すみません。
訪れた時、決して嫌な雰囲気はありませんでした。
もしかしたら、日本の未来を考えて散っていった彼らは、怨みだけでなく慈悲の心を持っていて、そんな彼らに守られて住みやすいかもしれませんね。


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