所郁太郎顕彰碑−高田公園

2008年12月13日
高田公園内の井上馨像の横に、所郁太郎顕彰碑(山口県山口市湯田温泉2−5)があります。
所太郎顕彰碑
所郁太郎は、美濃国不破郡赤坂町の矢橋亦一の二男です。
大野郡西方村の医師所伊織の養子となりました。
医術を加納藩医青木松軒に学びました。
京都の安藤桂洲、また大坂の緒方洪庵の適塾に入門しました。

文久3年京都河原町の長州藩邸の近くに開業し、長州藩士と親しみました。
同年、攘夷の詔が下るに及んで、医業をやめて長州に投じました。

下関の攘夷戦にも参加し、同年八月十八日、長州は失脚して七卿落ちとなりました。
藩医長野昌英の代理として七卿附医官、また久坂玄瑞や高杉晋作に協力しました。
翌元治元年7月、長州藩の東上に加わって蛤御門の変に参加しました。

同年9月25日夜、井上馨が山口政事堂から湯田村高田の自宅に帰る途中、俗論派の中井栄次郎、周布藤吉、児玉愛次郎に突然襲撃されて負傷したとき、たまたま山口に居たので、長野昌英、日野宗春両医師の援助で応急処置を施しました。

井上馨の傷を畳針で50余箇所も縫合したといわれています。

慶応元年2月に疫病に罹り、同年3月12日病没。
享年29歳。
贈従四位。
幕末維新人名事典より


畳針で50箇所………痛い……!
考えただけでも痛いです。
瀕死の重傷でも痛みは感じますよね。
命には代えられないですが………痛い。

井上馨にすれば、命の恩人です。
そういう所以で、井上馨像のそばに顕彰碑があるそうです。

今、改めて所郁太郎の経歴を見てみると、亡くなったのが29歳とは思えません。
これだけのことを29年間でよくやったなと思います。
(この顕彰碑には27歳で亡くなったとあります。)

公園内の他の碑やオブジェと比べると、簡素な碑でした。
井上馨像に隠れるようにありました。
実際は隠れているわけではなく、横にちゃんとあるのですが、像に目がいくので見落とされてしまうのではないかと思うのです。
実際私も、井上馨の何か、かと思っていました。


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