井上馨生家跡-高田公園

2008年12月13日
高田公園は井上馨生家跡(山口県山口市湯田温泉2-5)につくられました。
井上馨生家2  井上馨像2

井上馨像3209
高田公園内の井上馨像

井上馨の生家跡で、井上公園とも呼ばれています。
井上馨は、伊藤博文、山尾庸三、井上勝、遠藤謹助とあわせて、「長州ファイブ」と呼ばれています。
この5名は、文久3年5月、イギリスロンドンに大学へ留学したメンバーです。

井上馨は萩藩士井上光亨の次男に生まれ志道慎平の養子となりましたが、文久3年、井上家の家督を継いで井上姓に復しました。
明治3年、馨と改名。

藩主の側近に仕え、文久2年11月には尊攘志士たちと交わりました。
高杉晋作らと品川御殿山の英国公使館を焼討ちしました。

文久3年5月、藩許をえて伊藤俊輔(博文)ら4人とロンドンに渡航しましたが、半年後、長州が馬関攘夷を展開していることを知って、阻止するために伊藤と2人で、急遽帰国しました。
元治元年8月、四ヵ国連合艦隊との下関講和談判に通訳として加わりました。
その後、第一次征長軍を迎えて武備恭順論を主張、9月、湯田で俗論党壮士に襲われて瀕死の重傷を負いました。
元治2年1月、鴻城軍総督にかつがれて俗論党を倒しました。

慶応元年閏5月、桂小五郎と西郷隆盛との下関会談が流れたあと、桂を説いて坂本龍馬・中岡慎太郎との会談の席に就かせ、薩摩名義を利用し亀山社中を通じて、長州のために小銃、軍艦を購入することに取り決めました。
7月、伊藤俊輔と長崎へ出張し、小松帯刀の帰国に従って鹿児島にも赴きました。

英商グラバーから小銃7,300挺の購入に成功し、同時に亀山社中の上杉宗次郎の斡旋で蒸気船ユニオン号(薩名 桜島丸)の購入を決め、その運用は亀山社中が長薩のため貿易に使用するという桜島丸条約を結びました。
しかし、萩藩海軍局の抵抗をうけて紛糾、慶応2年、薩長上層部の話し合いで決着しました。

また慶応元年12月には、下関に下ってきた坂本龍馬と共に木戸孝允を説得、翌年1月、薩長盟約が成立しました。

幕長戦争では、芸州口参謀として幕軍を破り、9月、広沢真臣らと安芸の宮島で、勝海舟との間に休戦協定を結びました。

明治政府が成立すると、参与兼外国事務掛に取り立てられました。
以後、外務、内務、大蔵など各大臣を歴任、三井組と日本財閥の育成に力を貸しました。
静岡県興津の別荘で病没。享年81歳。
墓は東京都港区芝公園3丁目 金地院。
坂本龍馬大事典より


JR山口線湯田温泉駅から、湯田温泉中心街へ真っ直ぐに行った場所にあります。
距離にして約900mです。

湯田温泉には無料の足湯が5箇所ありました。
その1箇所がこの高田公園にあります。
史跡巡りをしながら、足湯にも浸かれるのです。
夕飯後、散歩がてら高田公園に行きました。
残念ながら、足湯は故障中で浸かれませんでした。(他の4箇所は堪能してきました。)

高田公園は広い公園です。
しかしその面積の半分ぐらいは、碑やオブジェで使われている感じでした。

1枚目の写真の碑が、井上家があったという碑です。
その対角線上の隅に、下段の井上馨像が建っていました。

井上馨についてはやはり、「竜馬におまかせ!」のイメージしかありません。
馨というより、聞多という方が好きですね。
「竜馬におまかせ!」なので、実際の人物の性格をどこまで取り入れられたのかはわからないのですが、すごく“やんちゃ”なイメージを持っています。

井上馨と桂小五郎と伊藤俊輔の3人の写真を見ると、似てませんか?
激似というのではないですが、長州顔というのでしょうか。
“すっきり”という雰囲気の顔ですよね。
出身藩によって、雰囲気が似てくるのかもしれませんね。
環境も影響してくるものなのですね。


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