高杉・来島・久坂・寺島・入江・有吉墓-霊山墓地

2008年11月25日
霊山墓地(京都府京都市東山区清閑寺霊山町)にある、高杉晋作・来島又兵衛・久坂義助・寺島忠三郎・入江九市・有吉熊次郎の墓碑です。
高杉・久坂・来島墓
向かって右から、高杉晋作・来島又兵衛・久坂義助・寺島忠三郎・入江九市・有吉熊次郎です。

高杉晋作は、長州藩士です。
高杉小忠太の長男として萩城下菊屋横町に生まれました。実禄150石。
谷梅之助の変名もあります。

藩校明倫館に学び、安政4年吉田松陰の門に入って頭角を現しました。
久坂玄瑞とともに松下村塾の双璧といわれました。

幕府の船で上海に渡り、見聞を広めて帰国しました。
ヨーロッパ列強に植民地化された上海を見たことや、かつて横井小楠らの影響もあり、高杉は、尊攘激派の活動には批判的でした。
文久2年の江戸高輪の英国公使館放火事件に加わったものの、翌文久3年4月の京都において、10年もたてば自分の思う世の中が来るだろうからと、西行ともじって東行となのり、頭を丸めて松本村に閑居してしまいました。
文久3年5月10日から始まった、長州藩の関門海峡における攘夷実行の為に、ひっぱり出されました。

その時、組織したのが奇兵隊でした。
出身身分を問わない庶民軍隊は、その後長州藩の明治維新推進のための中核部隊となりました。

元治元年、長州藩では前年八・一八の政変で京都を追われた失敗を挽回するために、遊撃隊長来島又兵衛らは進発論を唱えて実力行使にでしょうとしました。
高杉はこれを阻止しようとして来島と激論、説得に失敗して自ら脱藩して大坂に出て、久坂玄瑞や入江九一らと会い、事を共にしようとしましたが、世子の召還により帰還し、野山獄につながれました。

しかし高杉晋作は、講和交渉のために採用されました。

しかし、幕府の第一次長州征伐に完全屈伏して恭順派が権力を握ったため、高杉は一旦亡命して筑前の野村望東尼のものとに身を寄せました。
慶応元年正月、奇兵隊以下の諸隊を率いて反乱、討幕派藩政府の樹立に成功しました。

その後反対派に狙われて、一時讃岐の日柳燕石の家に潜伏し、木戸孝允の尽力で帰藩しました。
第二次征長線では幕府軍を、四境の外に追い払う大成功を治めました。
しかしその時、すでに病は重く、慶応3年4月14日結核のため下関で死去。享年29歳。

墓は下関市吉田町東行庵。
他に下関市上新町桜山神社、京都市東山区清閑寺町霊山、萩市椿東椎原にも墓碑があります。


来島又兵衛については、2008年11月5日の「京都御所-来島又兵衛戦死の地」の記事に書いています。

久坂義助(久坂玄瑞)は、長州藩士。
松野三平、河野三平の変名を使っています。
萩城下平安古八軒屋に藩医久坂良迪の二男として生まれています。
吉松淳三の私塾に学び、ついで藩校明倫館に入り、のち医学所で蘭学を修めました。

14歳の時に母を、翌年父と兄の玄機を亡くし家督を相続しました。25石。
安政3年3月、眼病治療を兼ね、筑前から九州を遊歴、肥後熊本で兵学者宮部鼎蔵に会い、吉田松陰の名前を知り、帰藩後文通を始めました。
玄機の友人中村九郎や僧月性の推薦もあり、翌4年松陰門下生となりました。

その年の12月、18歳の時に松陰の妹文と結婚して、その実家杉家に同居しました。

師の松陰は前年大獄によって野山獄に入獄し、江戸送りとなりました。
この間、玄瑞は松陰のために奔走、その刑死にもっとも憤って、万延元年2月、在萩の松下村塾生と墓碑を建てて、松陰の意志を継ぐことを誓いました。

文久元年、桂小五郎や入江九一らと和宮降嫁阻止、長井雅楽の航海遠略策に反対して激しい運動を展開し、失敗して国許に追い返されると脱藩して再度上京、諸藩の志士と交わり、尊皇攘夷の急進論者としてめざましい活動を開始しました。

翌2年久坂の弾劾運動が功を奏して長井雅楽は失脚、長州藩は尊攘論に一転しました。
この年、高杉らと御循隊を組織して攘夷血盟書を作り、12月イギリス公使館の焼討ちを実行しました。

文久3年6月には、京都で真木和泉、宮部鼎蔵らと攘夷親征を謀り、朝廷工作に奔走して成功しかけましたが、八月一八日の政変によって、朝議は薩摩、会津藩系によって牛耳られ、長州藩兵は尊攘系公卿七人を擁して京都から撤兵しました。

帰藩後政務役となった久坂は、京都における失地回復を謀っていましたが、藩論は来島又兵衛ら進発論者によって制され、三家老が大軍を率いて上洛、久坂は時期尚早を説きましたが、真木、来島らが聞き入れず、久坂も決意して7月18日夜、戦端を開きました。
玄瑞は兵を率いて鷹司邸に押しかけ、19日、桑、彦、会、薩の兵と戦いましたが、流弾にあたって重傷を負い、入江九一に後事を託して自刃しました。享年25歳。

墓は京都市東山区清閑寺霊山町の霊山墓地、萩市椿東護国山、山口市朝日山招魂場、下関市上新地桜山神社。

寺島忠三郎は長州藩士。
一時、作間忠三郎ともいいました。
長州藩無給通士太次郎の子。
14歳の時、吉田松陰門下に入り、間部要撃策に血盟した十七士に名前があります。

安政5年、松陰が再び野山獄に投ぜられたとき、入江九一、有吉熊次郎、品川弥二郎らと藩庁におしかけ、その罪名を詰問し激論しました。
このため一同謹慎を命ぜられました。

万延元年、明倫館に入りました。
この頃、久坂玄瑞と親しくなり、久坂と共に江戸にでて、また文久元年には京都で、尊攘激派として活躍し、文久2年には公武合体論で藩論をリードしていた長井雅楽の暗殺を企てましたが、果たせず法雲寺に囚えられました。

この冬外館焼討を計画、翌3年攘夷の期限の決定を久坂らと朝廷に迫りましたが、八月の政変で長州藩兵は京都を撤退しましたが、探索の厳しい京都に残って活動を続けたので馬廻並に列せられました。

翌元治元年禁門の変で負傷、鷹司邸で久坂らとともに自刃しました。享年22歳。

入江九一(入江九市)は長州藩士。
萩土原の長州藩足軽嘉伝次の長男として生まれました。
和作(野村靖)は弟。

安政3年父を喪って、貧窮をきわめましたが、九一は江戸藩邸の下働きをして家計を助けながら、学問に励みました。
安政5年江戸より飛脚として帰国、その時初めて吉田松陰を知り、松陰に深く傾倒し、松陰も彼を信頼していました。
松陰は当時間部老中要撃策を計画中で、九一もその血盟者でした。
計画は失敗し、松陰は投獄され、門下生の高足高杉晋作、久坂玄瑞らが松陰に批判的立場をとりはじめた時期も、九一は変わらず松陰の指示に従い、大原三位西下策と伏見要駕策のため、弟和作と上京しようとしたところを捕えられました。

文久3年、士分の待遇をうけ、下関の外艦砲撃のさいは同地に赴き馬関総奉行所列座にあげられ、高杉を助けて奇兵隊創設に尽力しました。

元治元年禁門の変で戦死しました。
遺骸は京都市東山区清閑寺霊山の霊山墓地。
また、鞍馬通上善寺に首塚があります。享年28歳。

有吉熊次郎は長州藩士。

若くして藩校明倫館に入りましたが、安政5年16歳のとき吉田松陰の塾に入門しました。
松陰の間部老中要撃策の血盟に参加しています。

松陰が獄に下ると寺島忠三郎らと藩府を論難したために幽閉されました。

文久元年、高杉晋作とともに御番手として江戸に出て、藩邸有備館にありました。
翌年、高杉、久坂の指揮のもとで、品川御殿山の英国公使館を焼討ちしました。

文久3年藩命によって航海術を学び、京都の学習院に入って、松陰門下生や他藩の尊攘激派と親交しました。
この年5月、帰国して久坂らと八万隊を組織、翌年池田屋の変のさいは危ないところを逃れました。

元治元年の禁門の変では久坂らと鷹司邸において戦い、最期に従僕に託して母親に戎衣を送り自刃しました。享年23歳。

墓は京都市東山区清閑寺霊山町の霊山墓地と山口市朝日招魂場です。
幕末維新人名事典&新選組大事典&坂本龍馬大事典より


大村益次郎(大邨君之神霊)墓の後ろにある階段を登り、すぐの階段をもう一度登った辺りに5柱並んでいます。

高杉晋作については、下関の東行庵に埋葬されているようですが、
その他の人に関しては、埋葬あるいは遺髪か遺品かが埋められているように思います。
有名人のお墓に関しては、あちこちにあって、遺髪塔や遺品のみなどがあって、私が勝手に勘違いしていることも多々あります。
この5人についても、自信があまりありません。
墓碑については、間違いありません。

高杉晋作の辞世の句

おもしろき こともなき世を おもしろく すみなすものは 心なりけり

の「すみなすものは 心なりけり」は野村望東尼が詠んだといわれています。
しかし、この句は前年にすでに読んでいたという記録も残っているそうですね。
でも、高杉晋作が詠んだことにはかわりないのでしょ?

土方歳三とどちらが味のある歌をよんだのでしょう。
新選組ファンとしては、土方さんに1票を入れたいところですが…。

都々逸の「三千世界の烏を殺し、主と朝寝がしてみたい」も高杉晋作作という説もあるそうですね。
このフレーズ聞いた事があります。

高杉晋作といえば、一人で写っているあの写真を思い浮かべます。
頬が窪んで、口が大きくて、“馬面”といったら失礼でしょうか。
容姿としては、あまり美丈夫とはいえないと思います。

しかし、伊藤博文ら3人と写っている、もう少し若い頃の写真(?)は、また感じが違いますね。
こちらの高杉晋作の方が好きです。

高杉晋作も結核で、若くして亡くなっているので、どうしても沖田総司を思い出します。
沖田総司の方が若干若いですね。
当時は結核といえば、不治の病。
今でも、また結核が流行っていて、亡くなる人が増えているそうです。
現在でもそんな状況ですから、罹ったらもう終わりを覚悟してたのかもしれません。

体を鍛えていた武士なので、体力があったでしょうから、病気の進行を遅くできたのか?
武士だからこそ、病気療養が出来なくて、働き続けたので病気の進行が早まったのか?
どちらだったのでしょうか?

きっと沖田総司も高杉晋作も、病で亡くなることには不満だったのでしょうね。


高杉晋作の29年―クロニクル高杉晋作の29年―クロニクル
(2008/07)
一坂 太郎

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Comment
霊山墓地、京都に行ったら一番生きたい場所です。こちらのブログでちょっと行った気になりました。ありがとうございます。新選組も好きですが、長州派なもので、それなのに楽しませていただいててすみません。
少しでも楽しんでいただけたら、嬉しいです!
私は新選組が好きですが、会津も長州も土佐も好きです。
薩摩…は、人によるかな…。
幕末という時代が好きなので、長州派の方も大歓迎で~す!!
(ただ私が新選組側からものを見ているので、不愉快な文があったら申し訳ないです。)
No title
私は有吉熊次郎の子孫にあたる者です。こちらのブログを拝見させてもらい大変嬉しく思いました。
私はいつも熊次郎さんの事を誇りに思っています。
Re: No title
ありがとうございます。
また来て頂けると嬉しいです。

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