木戸孝允邸跡

2008年11月21日
木戸孝允が亡くなった屋敷跡(京都府京都市中京区土手町通竹屋町下ル東側)です。
木戸孝允終焉の地1  木戸孝允終焉の地2
維新後、桂小五郎は開国和親の方針を採り、版籍奉還、廃藩置県等を達成しました。
岩倉具視の特命全権使節団の副使として欧米を視察し、明治6年7月に帰国しました。
西郷・板垣らによってとなえられていた征韓論には反対しました。

明治8年6月第一回地方長官会議の議長を務め、翌9年3月参議を辞任して内閣顧問とりなり、この年6月の東北・北海道巡幸に随行しました。
そして健康を害した彼は、明治10年2月、西南戦争が起こると国や西郷を案じ、病はますます重くなりました。
この頃、京都には行在所が置かれていて、5月19日朝、明治天皇は木戸邸に病気見舞いに訪れました。

5月25日勲一等に叙せられ、旭日大綬章を授けられました。
翌26日満44歳にて永眠。
正二位を贈られ、遺言により東山霊山に葬られました。
同34年従一位が追贈されました。

木戸孝允が病に臥し、亡くなった処がこの邸です。
写真でみる維新の京都より


京阪電鉄神宮丸太町駅で降り、丸太町橋を渡ります。
河原町丸太町バス停のある角を南に曲がり、200m歩くと、お宿いしちょうと旅館・石長松菊園があります。
そのおやどいしちょうと旅館・石長松菊園の間の路地を入って行った突き当り、市職員会館かもがわ横にあります。
(お宿いしちょうと旅館・石長松菊園は別記事で書きます。)

当時もこの建物しかなかったのでしょうか?
別棟と続いていたとか、大きな建物だったのでしょうか?
お宿いしちょうや旅館・石長松菊園の前にある碑などから考えて、敷地は広かったと思うのですが…。

あの桂小五郎が晩年を過ごした家が、これほど小さいのは少しギャップを感じます。
坂本龍馬ほど人気がないとしても、西郷隆盛、大久保利通と共に、維新の三傑と称された木戸孝允です。
もっと広大なお屋敷かと思っていました。
やはりもっと大きかったのでしょうね。

遺言で霊山墓地に埋葬されたそうですが、桂小五郎はそれほど京都に愛着を感じていたのでしょうか?
私は桂小五郎時代も木戸孝允時代も、それほど詳しくありませんが、京都が好き!骨を埋めたい!と思ったような記述(資料や小説等)を見たことがありません。
どちらかといえば、土地に執着をもつタイプで無いようなイメージです。
ある意味坂本龍馬的な感じです。

なので長州山口、萩に愛着があるかというと、そんなイメージもありません。
あえていえば、江戸というより東京というイメージでしょうか。

京都に居られた、「天皇」に愛着があったのかも知れませんね。


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(2004/11)
古川 薫岡田 嘉夫

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