木戸孝允墓-霊山墓地

2008年11月19日
霊山墓地の頂上あたりに木戸孝允墓(京都府京都市東山区清閑寺霊山町)があります。
木戸孝允墓
木戸孝允(桂小五郎)は、萩藩医和田昌景次男でしたが、萩藩士桂九郎兵衛の養子となりました。
慶応元年9月、木戸貫治と改名。名は孝允、号は松菊など。

嘉永5年、江戸にて斉藤弥九郎の練兵館道場の塾頭に進み剣名を高めました。
安政4年10月の鍛冶橋土佐屋敷での仕合に坂本龍馬、桂小五郎の名前もあるそうです。

文久3年、京で尊攘運動を進めましたが、堺町門の変のあと一度帰国し、文久4年1月に京都留守居役として再上京しました。
元治元年6月5日の池田屋の変では、顔を出した時間が早く対馬藩邸に入っていて難を逃れました。
7月19日、禁門の変のあと京都を脱出し、但馬に潜伏しました。
慶応元年4月、下関に帰りました。

慶応元年閏5月1日に、坂本龍馬が下関にあらわれました。
桂小五郎は6日に山口から出関して共に西郷隆盛を待ちましたが、西郷は鹿児島より上方へ直行し、中岡慎太郎だけが姿を見せました。
桂は坂本、中岡と薩摩名義による長州の小銃軍艦購入について相談しました。
坂本は上京し、西郷の承諾を取り付け、10月4日までに下関に戻りました。
表面上は薩摩の兵粮調達交渉でしたが、本意は桂の上京を説得することでした。

慶応2年1月21日、京都薩摩屋敷で、西郷と木戸(桂)は坂本龍馬立会いのもと、薩長同盟を結びました。

12月14日、土佐藩士溝淵広之丞を伴って下関に入港した坂本龍馬は、山口に木戸孝允を訪ね、長土の復交について意見をかわしました。
慶応3年8月20日、長崎に出張していた木戸は、イカルス号事件のためやってきた坂本龍馬と会談しました。
この時龍馬は、佐々木高行を紹介しました。
木戸は土佐藩が進めている大政奉還建白には消極的でした。

慶応4年1月、木戸は総裁局顧問として、いきなり新政府の枢要の地位に就きました。

西南戦争の最中、45歳で病に斃れました。

墓は京都市東山区清閑寺霊山町の霊山墓地。
山口市糸米に木戸神社があります。
坂本龍馬大事典より


霊山墓地を上って行くと立派なお墓があります。
向かって左には、松子夫人のお墓もあります。
松子夫人は、あの有名な幾松ですね。

坂本龍馬に続いて驚きました!
木戸孝允のお墓もここなのですね!!
萩にあると思っていました。
萩に無かったですか?
だれかと間違えているかな?

“しょーもなぁ~”といわれるようなことなのですが、
木戸孝允という名前より、“桂小五郎”の方が好きです。
木戸孝允が硬い響きで、偉そうな感じがするからかな?
それとも幕末期の活躍は“桂小五郎”の時だったからでしょうか。
自分自身のことですが、何故かというはっきりとした原因がわかりません。

ちなみに桐野利秋よりも、“中村半次郎”の方が好きです。

近藤勇や土方歳三も京都を去る頃から、変名を名乗っていたりしますが、やはり“近藤勇”“土方歳三”が好きです。


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