西本願寺&西本願寺北集会所

2008年11月16日

西本願寺(京都府京都市下京区堀川通花屋町下ル、門前町60)は、東本願寺と並んで建つ大きなお寺です。
西本願寺1  西本願寺2
       御影堂               太鼓楼

西本願寺は勤王派でした。
蛤御門の変の時にも、敗れた長州兵を匿い逃走の手助けをするなどしていました。
そのため幕府の捜索もたびたびあり、斉藤弥九郎義弟などの一味や、侍臣2名が捕縛されるなどがありました。

元治2年3月、壬生屯所が手狭になった新選組は、監視の意味も兼ねて屯所を移しました。
西本願寺の北集会所と堂宇(現:幼稚園)と太鼓番屋だったといいます。
本陣の札を掲げ、牢屋から首斬り場まで拵えました。
当時の人数は、土方歳三が江戸で募集した隊士52名を加え、130余名いました。

閏5月、将軍家茂に随行して上洛した松本良順が西本願寺屯所を訪問しました。
良順は総人数170~180名で、3分の1は病人と、土方から告げられています。
良順の指示で、集会所に病室をつくり、養豚・養鶏なども行いました。

新選組はさらに境内で鉄砲の調練まで行いました。
寺は会津藩に交渉し、大小砲の訓練は壬生寺で行われることになりました。

また9月には市中で口論になった熊本藩士を屯所へ連行したため、怒った藩士80名が寺へ押しかける騒動もありました。
このような経緯から、寺側では屯所の移転に手を尽くしています。
慶応3年6月、不動堂村へ移転しています。

明治になって、島田魁は後年を西本願寺の警備員としてつとめ、春の彼岸の非番の日に寺へ見廻りに行き、持病の喘息の発作のため死病しました。
また篠原泰之進は明治3年1月15日、西本願寺内蓮城院東坊の住職佐々木信瑞の長女、16歳のチマを後妻として迎えています。

≪西本願寺北集会所 にしほんがんじきたしゅうえしょ≫
屯所を西本願寺に移した時に、主として使用されたのがこの北集会所といわれています。
太鼓番屋の西側、現在の参拝会館のあたりにありました。
広さは600畳余りと、西村兼文『新選組始末記』にあります。

西本願寺第20世・広如上人の息女が姫路市亀山の本徳寺に嫁いだ縁により、明治に北集会所は解体移転され、本徳寺の本堂となりました。
新選組史跡事典より


JR京都駅から塩小路通を西へ、堀川塩小路交差点で堀川通を北へ向かいます。
堀川塩小路交差点から400mほどの距離です。

これだけ広いと、新選組にとってはありがたい場所だったでしょう。
しかし西本願寺といえば、信徒さんの数も半端ではないでしょう。
その中で大砲の練習をしたりはやっぱり無理があるでしょう。
でも、大小砲の練習は壬生寺で…とありますが、壬生寺はイヤイヤながらも、大小砲の練習を許していたのでしょうか?
強く言えなかった?
さすがに西本願寺にように、移転を促すだけの費用がなかった?

さらに斬首場や、豚や鶏を絞めて食べるという、寺院としては考えられない殺生をするなんて。
新選組も勤王派の西本願寺に嫌がらせをしたかったのかもしれませんね。

西本願寺のこの境内を、近藤勇が土方歳三が、沖田総司が歩き、走ったと想像すると、ワクワクしてきます。
古い建物も多いですし、樹齢何百年?というような木もあって、「彼らを見た?」と問いかけて返事があればいいのにとも思ってしまいます。

物に触れると、それに触った人の意識が読み取れるという、超能力者がテレビなどに出ています。
(最近はそういう番組は減りましたね。あまり信じていません(信じられません)が、好きなのにな~。)
そういう人が触れたら、新選組隊士たちの意識を読み取る事ができるのでしょうか?
非現実的なことまで考えてしまいます。


西本願寺第二十一代門主 明如上人抄―幕末明治期の仏教を救った男・大谷光尊西本願寺第二十一代門主 明如上人抄―幕末明治期の仏教を救った男・大谷光尊
(2004/07)
丹波 元

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Comment
西本願寺に牢屋や首切り場があったなんて…!
私、東本願寺は行ったことあるのですが、西本願寺は
まだないので、行ってみたいです☆
あと、勝手ながらkamabokoさんのブログ、リンクさせて頂きました!
こんな私ですが、今後ともよろしくお願い致します。。
こちらこそ、これからもよろしくお願い致しますe-466

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