新選組不動堂屯所跡

2008年11月09日
新選組の3番目の屯所となった不動堂屯所跡(京都府京都市下京区油小路通塩小路上ル北不動堂町)付近です。
不動堂屯所跡
「写真でみる維新の京都」に掲載されている、不動堂屯所付近の写真と同じ辺り

不動堂屯所跡5259

不動堂屯所跡3257  不動堂屯所跡4258
近年、リーガロイヤルホテル京都の入口に“不動堂屯所跡”の碑が建てられました。

1枚目の写真撮影の場所から100mほど南の、同じ堀川通にあります。
壬生、西本願寺と屯所を移し、その後が不動堂でした。

慶応3年6月15日に不動堂村へ屯所を移しました。
不動堂村の由来は域内にある、不動堂明王院によります。
土地の人は「ふどんどう」と呼びます。

西本願寺に屯所を置いていた頃、砲声を嫌い怯える二〇世門主広如上人へ、銃砲声を轟かす調練を境内で行うなどして、上人は1万両の立ち退き料を払い、不動堂へ移転してもらいました。

上記の金子で興正寺(西本願寺南隣の元末寺)所有の地に立派な屋敷を新築しました。
同寺の下屋敷を使用したという説もあります。

その地は現在、北側を木津屋橋通、南側を塩小路通、東側を油小路通、西側を堀川通(当時は醒ヶ井通)によって囲まれた、東西75m、南北90mの約2,000坪の地でした。
東半分は不動堂町(大戦後の塩小路通の拡幅で、同町は南・北に分かれました)で、西半分は御方紺屋町の東部で、戦前までは、この町の大部分を安寧尋常小学校が占めていました。

同校は戦後、堀川通の拡幅に伴い、西へ移転しました。
もとの安寧小学校の地が新選組屯所跡と考えられます。

新選組が不動堂村にいた期間は、半年足らずでした。
慶応3年12月12日には、すでに廃止されていた伏見奉行所跡へ移りました。

新選組不動堂屯所であったという建物は移築され、姫路市亀山の本徳寺の大広間・表書院として使われているといわれていますが、まだ確証となる物が発見されていません。
新選組史跡事典より

JR京都駅を北側に出ます。
京都タワーの前の塩小路通を、西に真っ直ぐ400m、真正面にリーガロイヤルホテル京都が見えます。
2枚目以降の写真の場所は、そのホテルの入口、堀川通に面してあります。
1枚目の写真はホテルの前を北に曲がり、1本目の通りの辺りです。
七条堀川バス停の少し手前ぐらいです。

不動堂屯所に移転してきた頃は、新選組の絶頂期が終わり、少し翳りが出てきた頃だと私は思っています。
時代の歯車と微妙にズレ出して、焦りも出てきているのではないでしょうか。

今でこそここはJR京都駅にも近くて、いい場所ですが、当時は御所にも二条城にも遠くて、いい場所とは言いがたかったのではないでしょうか?
ただ2,000坪というのは、想像がつきません。
なんたって私は庶民中の庶民ですから、そんな大きな土地とは無縁ですからね。
それでも西本願寺や東本願寺には到底及ばないのか…。

この頃には沖田総司は子供と遊ぶ事もなかったのでしょうね。
沖田総司の笑顔も無くなっていたら、とっても悲しいです。

京都の河原町や烏丸といった、観光スポットの多い地域とまた少し違った雰囲気です。
車は多いのですが、昔からの家という雰囲気の民家が多かったです。


新選組戦場日記―永倉新八「浪士文久報国記事」を読む新選組戦場日記―永倉新八「浪士文久報国記事」を読む
(1998/10)
木村 幸比古

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