秋の山
2008年10月20日
秋の山(京都府京都市伏見区中島御所ノ内町)という丘があります。
冬の秋の山山頂の記念碑と、夏の頃の秋の山山頂の記念碑
鳥羽離宮跡公園内に近年建てられた説明板
城南宮横の国道1号を西へ渡ると、鴨川の堤防の手前に鳥羽離宮跡公園があります。
公園内北部に木の生い茂る小高い丘があります。
この丘が鳥羽離宮の庭園の築山の一つと伝えられる、秋の山です。
現在の国道を挟んで東側北寄りに春の山がありました。
秋の山の頂上に建つ、鳥羽伏見戦跡碑は、戊辰戦争の発端となった鳥羽伏見の戦いを記念して、明治45年2月に有志の手で建てられました。
小牧昌業の撰文、山田得多の筆です。
慶応4年1月3日、慶喜の上洛とともに東軍(幕軍)は大挙して京へ押し寄せると、京都に伝わりました。
東軍の兵力は、本営の淀以北に1万、淀以南に大坂城警衛に5千。その他をあわせて2万3千あまり、これに対する西軍(官軍)の兵力は5千名ほどでした。
そして西軍の下鳥羽小枝守備隊としては、隊長野津鎮雄、第一遊撃隊長小倉壮太郎、以下薩藩兵士250名が砲八門を擁して小枝橋から秋の山一帯に布陣しました。
これに対して鳥羽街道へ向かった東軍部隊は、討薩の表を掲げた大目付滝川播磨守具知に率いられた見廻組400名ほどで、佐々木只三郎がその長でした。
幕軍から官軍の守る四つ塚に遣わされた見廻組の藤沼幸之丞、所谷健三郎は、洛中への通行を求めたが許されず、小枝橋南方へ下り、彼らから前進不可能の方を受けた滝川は、いったん淀へ戻り再び大久保忠恕の主力軍と合して、小枝橋南方の赤池方面へ進みました。
ここで滝川隊は、薩藩の参謀椎原小弥太、山口仲吾の二人が、野津鎮雄に属する薩藩五番隊の一部と斥候4人を連れた一隊に出会いました。
滝川は椎原、山口を相手に進路を開けるように申し入れましたが、「朝廷へ目下お伺いを立てている」とかわされ続けました。
時間の過ぎるのを焦った滝川は、強行突破を通告しました。午後5時頃でした。
椎原らは自陣へ引き返して、東軍は前進を開始しました。
薩軍陣営からラッパの音が響き、小枝橋一帯に布陣した薩軍の砲は射撃を開始しました。
戊辰戦争の火蓋が切って落とされました。
幕末維新京都史跡事典より
城南宮の西側を走る、国道1号(京阪国道)を渡ります。
交通量が多いので、歩道橋が架かっています。
国道1号を渡り西に1本、南に1本道を入ったところに、鳥羽離宮公園があります。
パッとみたところは、普通の公園です。
公園の隅に秋の山があります。
広い公園なので、子供達が大勢遊んでいました。
しかし、秋の山の方に関心を示す子供は誰もいませんでした。
そうですよね、子供なんて歴史に興味がないですものね。
秋の山の山頂には、戊辰戦争の碑がありますが、子供達が遊んでいる場所は、鳥羽離宮跡ですから、天皇の宮殿ですものね。
何度目かに行った時に、一番下の2枚の写真にあるような、銅版で出来たような説明板が建てられていました。
戊辰戦争が見直されているようで、嬉しかったです。
京阪国道を400m、南へ行くと「赤池」という交差点があります。
赤池も戊辰戦争で出て来る地名です。
鳥羽離宮
冬の秋の山山頂の記念碑と、夏の頃の秋の山山頂の記念碑
鳥羽離宮跡公園内に近年建てられた説明板
城南宮横の国道1号を西へ渡ると、鴨川の堤防の手前に鳥羽離宮跡公園があります。
公園内北部に木の生い茂る小高い丘があります。
この丘が鳥羽離宮の庭園の築山の一つと伝えられる、秋の山です。
現在の国道を挟んで東側北寄りに春の山がありました。
秋の山の頂上に建つ、鳥羽伏見戦跡碑は、戊辰戦争の発端となった鳥羽伏見の戦いを記念して、明治45年2月に有志の手で建てられました。
小牧昌業の撰文、山田得多の筆です。
慶応4年1月3日、慶喜の上洛とともに東軍(幕軍)は大挙して京へ押し寄せると、京都に伝わりました。
東軍の兵力は、本営の淀以北に1万、淀以南に大坂城警衛に5千。その他をあわせて2万3千あまり、これに対する西軍(官軍)の兵力は5千名ほどでした。
そして西軍の下鳥羽小枝守備隊としては、隊長野津鎮雄、第一遊撃隊長小倉壮太郎、以下薩藩兵士250名が砲八門を擁して小枝橋から秋の山一帯に布陣しました。
これに対して鳥羽街道へ向かった東軍部隊は、討薩の表を掲げた大目付滝川播磨守具知に率いられた見廻組400名ほどで、佐々木只三郎がその長でした。
幕軍から官軍の守る四つ塚に遣わされた見廻組の藤沼幸之丞、所谷健三郎は、洛中への通行を求めたが許されず、小枝橋南方へ下り、彼らから前進不可能の方を受けた滝川は、いったん淀へ戻り再び大久保忠恕の主力軍と合して、小枝橋南方の赤池方面へ進みました。
ここで滝川隊は、薩藩の参謀椎原小弥太、山口仲吾の二人が、野津鎮雄に属する薩藩五番隊の一部と斥候4人を連れた一隊に出会いました。
滝川は椎原、山口を相手に進路を開けるように申し入れましたが、「朝廷へ目下お伺いを立てている」とかわされ続けました。
時間の過ぎるのを焦った滝川は、強行突破を通告しました。午後5時頃でした。
椎原らは自陣へ引き返して、東軍は前進を開始しました。
薩軍陣営からラッパの音が響き、小枝橋一帯に布陣した薩軍の砲は射撃を開始しました。
戊辰戦争の火蓋が切って落とされました。
幕末維新京都史跡事典より
城南宮の西側を走る、国道1号(京阪国道)を渡ります。
交通量が多いので、歩道橋が架かっています。
国道1号を渡り西に1本、南に1本道を入ったところに、鳥羽離宮公園があります。
パッとみたところは、普通の公園です。
公園の隅に秋の山があります。
広い公園なので、子供達が大勢遊んでいました。
しかし、秋の山の方に関心を示す子供は誰もいませんでした。
そうですよね、子供なんて歴史に興味がないですものね。
秋の山の山頂には、戊辰戦争の碑がありますが、子供達が遊んでいる場所は、鳥羽離宮跡ですから、天皇の宮殿ですものね。
何度目かに行った時に、一番下の2枚の写真にあるような、銅版で出来たような説明板が建てられていました。
戊辰戦争が見直されているようで、嬉しかったです。
京阪国道を400m、南へ行くと「赤池」という交差点があります。
赤池も戊辰戦争で出て来る地名です。
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鳥羽離宮
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